神はどーだっていいとこに宿る


by god-zi-lla

夜と霧

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去年の暮れ、仲間に加えてもらっている読書会のお題が〈夜と霧〉になって、そのとき初めて新訳の新版が同じ版元から出てもう随分になるということを知ったんでした。たしかに初版が2002年で、入手した1冊は2015年の28刷りになっている。新版になってもずうーっと読まれ続けているってことなんだな。

おれがこの本を初めて読んだのは高校生の頃、吉川英治の宮本武蔵や柴田錬三郎の眠狂四郎無頼控、野村胡堂の銭形平次、山手樹一郎の桃太郎侍(ちなみにどれもこれも全部読みました)などの間に挟まって父の本棚にあったのを見つけたときで、それが上の写真の右のヤツなのだった。おれが見つけた当時はたしかパラフィン紙のカバーがついていて背文字もはっきり見えてたんだけどね。奥付を見ると初版は昭和31年8月15日、この1冊は同じ年の9月5日の6刷りとなっていて、定価は250円。

せんだって父の本棚からこの本を借りるとき(いまは司馬遼太郎に囲まれている)、父が言うには知人にこれを読んで勧める人がいたので手に取ったところ、こういう本は買って読まなきゃいかんと思ったのであらためて買って読んだというんだな。

昭和31年といえば1956年でおれの生まれた年だから、もちろんその頃この本がどんなふうに受け止められたのか知りもしないんだけど、発売からひと月もたたないうちの6刷りだったり剣豪小説好きの父が読んでたり、やっぱり相当のインパクトでもって登場したんだろうってことは想像がつく。

で、それから16、7年たって読んだおれもすごい衝撃を受けた。ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の事実は「歴史」として知ってるだけで、そこから生還した人が収容所での体験を本に書いているということをまるで知らなかった。

ところで高校生だったおれはこれを読んでショックを受けたわけだけど、さすがに40年以上昔のことだから何がどうショックだったのかまるで覚えてないんだ。だから読書会のお題として再読しなきゃいけないと決まったときには肩に力が入るような感じと躊躇する気持ちが入り交じって、なかなか取りかかれなかったんだよな。

ところが読み始めてみると、なんだか印象が違う。もちろん重苦しい本であることになんら変わりはないんだけど、むかし読んだときのインパクトと違う何かなんだよな。あれ、こういう本なんだっけ? という感じが付きまとったまま読み進んで最後まで行ってしまった。

でね、インパクトがないとか肩すかしとかっていうんじゃなくって、こういうことが書いてあったのかという驚きがあってさ。つまりそのこういう状況に置かれたときに人間はどんなふうに何を考えて、どう行動するのか(あるいはしないのか)、同じような状況に置かれたとき精神が崩壊する人間としない人間がいるのは、なんの違いによるものなのか、あるいは残酷さというのはどういう人がどういう時に発揮するものなのか、そういう人間観察の視線が誰彼でなく当時著者フランクルのまわりにいたすべての人に注がれ、書き留められてたんだっていう驚き。だけどそれは旧版だって同じなんだよな。

この新訳の新版というのは、訳者あとがきを読むまで知らなかったんだけども、たんに訳を改めたというだけじゃなくって著者自身が改訂を加えていて、だからこそ「新版」なんだというんだな。もしかするとおれが読んで受けた旧版と新版の印象の違いにはそれもあるのかもしれないんだけど、もっと違う何かのような気もしてね。

版元のみすず書房は池田香代子訳による新訳の新版を2002年に刊行したあとも、霜山徳爾訳の旧版をそのまま併売している。併売するにはそれなりの意味があって、それを多分出版社は信じてるんだと思うんだな。

じつは父のところから旧版を借りてきたのは新版を読み終わってしばらくしてからで、旧訳と新訳がどう違うのか確かめてやろうと最初は思ったんだけど、旧版を40数年ぶりに開いていきなり、あーこんなところが違ってたのかと判ったのだった。

まず旧版は巻末に酸鼻を極めるとしかいいようのない口絵写真が8ページ添えられていること。それから巻頭、本文が始まる前に本文よりも小さな活字による2段組(本文は1段)65ページにも及ぶナチスドイツによるユダヤ人虐殺についての詳細な解説が付されている(読めば口絵写真よりもこっちのほうがずっと凄惨に思える)こと。なるほど、これがあったからじゃないのか、高校生のときに受けた別種の衝撃ってのは。

この口絵写真と解説は1956年、日本語版を刊行するにあたって出版社が独自に加えたもので原著にはないんだそうだ。旧版の冒頭「出版者の序」にこうある。
しかし我が国の読者のためには、強制収容所についての一般的記述で客観的なものが予備的に望ましく思われたので、解説および写真によってこれを補うことにした。おそらく読むに巻を措き、見るに耐えないページもあることであろう。
当時の日本におけるナチスの暴虐について知られていた情報の量からすれば、おそらく良心的で親切な配慮ではあったんだろうと思うんだが(今ならこういう出版は許されないと思う)、40数年前の不注意な高校生のおれはこっちのほうに気を取られてしまったに違いないんだ。

だから今回、読書会で再読する機会を与えられて、これはすごくラッキーだったと思う。そうなじゃなかったら再読することはおそらく死ぬまでなくて、アウシュヴィッツに収容される直前まで気鋭の精神医学者として活躍していた著者フランクルの、その見識に支えられてこそ描きえた人間の精神の本質について迫る本だったってことにまるで気づかないままだったろう。

だけど思うんだが、じゃあ高校生のときに旧版の解説や写真に触れたことがマズかったのかといえば、そうとも言い切れない気はするね。たしかにそっちに引っぱられてこの本の大事なところを読み損ねたのは間違いない。しかし読まなきゃよかったというようなものではない気がするんだな。これはこれで読んどいたほうが良かった。それを下敷きにしてこそ、フランクルが地獄そのもののような場所で、人間を、しかも肯定的に見つめ続け得たということの重要さ(そして困難さ)をより理解できるんじゃあるまいか。

たぶん出版社が旧版を残す理由もそのへんなんだろう。
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by god-zi-lla | 2016-03-09 17:03 | 本はココロのゴハンかも | Comments(0)