神はどーだっていいとこに宿る


by god-zi-lla

独立した身体表現?(佐渡裕×N響の『第九』)

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このまえの日曜日、オーチャードホールで佐渡裕、N響でベートーヴェンの第九を聴いてきた。年末の第九ラッシュを外して秋口にやるとこがミソですかねって、なんでミソなんだかわかんないけど、とにかく聴いてきたの。

佐渡裕はじめて聴いたんだけど指揮棒持たないんだな。「素手」で指揮する指揮者もじつはこれが初めてなのでした。それがしかしじつに興味深かったってえか、例によっておれの勝手な思い込みの可能性大ではあるんだけども「素手」で振るとこういうサウンドになるんだなあってね。いやそれはもしかしたら素手で振った結果じゃなくてそれこそが佐渡裕の演奏なんだってことかもしれないんだけど、だからその音を手に入れるために、この人は素手で振ってんのではなかろうかと。

あんなふうにちょっと霞たなびくっつうか、そこまでいうと誇張しすぎかもしんないんだけど、なんていうんですかね。小節線を6Bの鉛筆で引いちゃったような感じというか、シロートだもんでうまく言えないんだけどさ。

N響といえば、こうビシーっと揃ってるっていうイメージなんだけどおれは。非常に高精度な演奏といいますかね。まあたぶんそれが普通のイメージだと思うんですけども、そういう意味でいうとN響じゃないみたいな、ようするにちょっとだけズルズルに聞こえるというか霞たなびくというか、精度にプライオリティを置かない音楽をやってるように聞こえた。

それが素手で振ってる結果じゃないかと勝手に思ってるわけです。

おれは楽器やんないので想像でしかないけど、指揮棒の細い先っちょをスッと振り下ろしたの手をヒラっと振ったのとじゃ、音の始点と終点の位置が微妙だけども相当に違ってくるんじゃないかと、佐渡裕を見てて思ったんだけどね。

指揮棒の先っちょってなもしかして座標上のある1点というか時間と空間のある1点というか、とにかくそういうものをかなり精密に指し示してたりするんじゃないんでしょうか。

それにひきかえ素手ときたら五本の指の先やら関節やら手首やら。そもそもいったいどの部分でもって指し示してるのかすら非常にあいまいなんじゃなかろうか。とにかくそれでもって座標上の特定された1点を指し示すなんてことは、そりゃあどだい無理な話なんじゃなかろうかと思ったりするわけだ。シロート考えですが。

だから団員はそれぞれが自分の判断で「たぶんここいらへんだろう」つうポイントを探さざるをえないわけで、そうするといっかな高精度を誇るN響といえどもごくわずかながらなにがしかのズレが生じて、それがあのほんの少しだけもわっとしたサウンドを生み出してんじゃないんですかね。

そういうふうにきこえたわけですシロート耳に。

でそれは素手で振ることによって作り上げられた佐渡裕のサウンドなんだと、おれは勝手に思い込んだわけだ。

つうような話をいっしょに聴きに行った奥さんにしたら、さらにすごいことをこの方はおっしゃるのでした。

あれは指揮してるのではなくて、音楽に合わせて踊ってるのよ。

うひゃあ。

そうするとオーケストラはさらに困ったことになってるわけだ。
だってダンサーの伴奏を指揮者なしでつけてるバンドがN響だってことでしょそれって。
うーん。そこまでいうか。しかし、そう思えないではないよな。

たとえば小林研一郎のようなオーバーアクションと思われる指揮者というのは珍しくないわけですけども、そのコバケンさんにしたってようするに団員にきっちり意図を伝達したいがためにアクションが大きくなってるというのは間違いないわけで、あれはやっぱり踊っているというのとは違うと思うんだよな。

暴れてるのかもしれないけど。

さらに奥さんにいわせると佐渡裕のあの動きというのはN響が奏でる第九とはまたべつの、それに合わせて佐渡裕が演じたパフォーマンスだっていうんだよな。

そういわれてみると演奏中佐渡裕の動きをつい目が追ってしまうもんだから、あーこりゃいかん指揮者を見ないようにしなきゃ耳がおろそかになっちゃうじゃんかと、じつは何度も思ったのでした。ときには目をつむってもみたくらいなもんで。とにかくなんだかわかんないんだけど、それだけの吸引力があるのよな。

しかしそれもまたあのサウンドを求める指揮者の策略なのでしょうか。

いやまったく感動を驚きが圧倒する希有な演奏会ではあったなあ。
もっとも佐渡裕ファンの人たちにはふつうなのでしょうけども。
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by god-zi-lla | 2009-10-06 23:59 | 物見遊山十把一絡げ | Comments(0)