神はどーだっていいとこに宿る


by god-zi-lla

あ・うん(小説)

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おれが混ぜてもらってる読書会の今月のお題がこれだった。

読書会といっても毎回酒を出す店でやってるから酒を飲みながらあーだこーだ喋ってるわけで、酒を飲まないメンバーは当然酒も飲まずにあーだこーだ喋ってたりするわけだが、酒を飲むほうが饒舌で飲まない人は寡黙かといったらそんなこともなかったりする。

ただまあ酒を飲んでたりするわけだから結構おおざっぱなご意見というようなものも、もちろんおれなど飲んだくれを先頭にして相当交わされたりするわけであって、一部顰蹙を買ってもいようかと思わないでもないんだがそんなものは言ったモン勝ちなんであった。

それがせんだっての「あ・うん」のときには一瞬酔いの覚めるような瞬間というのがあった。

その夜集まったなかではたぶん一番若い30代の仲間から冒頭主人公水田仙吉一家4人が転勤先から東京へ戻って住み始めた借家の造りからしてそもそもどうなっているのか理解の範囲を超えていて、自分はこの小説を楽しんで読むところへうまくたどり着けなかったというんだよ。

そう発言した彼女はおそらく30代なかばあたりでその日の参加者のなかでは一番若いという感じだったんだが、もうひとり彼女と同年代のひともその言葉を聞きながら、そうそう、そうなのよねというふうに頷いているのだった。

今回のお題はべつに古典でもなんでもないし、これはちょっとびっくりした。
おれにはむしろあっけないくらいすらすらと読めてしまう小説だったんだがなあ。
んー、だがしかしたしかに少し考えてみればそうかもしれない。
茶の間から仙吉が飛び出して来た。はだしで三和土に飛び下り、物も言わず首ひとつ背の高い門倉をどやしつけた。
だの、
たみが上がりかまちに両手をついた。
だの、
思い返して門倉のだけ沓脱の上に置いた。
だの、わずか2頁たらずの広さでいえばほとんど一坪あるかなしかの玄関の描写だけでも三和土、上がりかまち、沓脱とこられた日にゃ、生まれたときからマンション暮らしでそんな家に住んだことも上がったことも見たこともない若者には、それがかつてごく当たり前の庶民の住まいの玄関でしたって言われてもわかりっこない。のっけからこれじゃあたしかに小説のなかに入っていきにくいかもしれないな。

いっぽう、おれ含めその日の過半数を占める50代のメンメンはくだんの箇所にさしかかるとなんの疑問も抱かず(そんなこと書いてあったっけというくらいに)ごく普通の日本家屋の玄関をなんとなくアタマに浮かべて読み進んだだけなのだった。

しかもさらに読み進むとチッキだの二号さんだののさらにパワーアップした魑魅魍魎がうじゃうじゃ出てくるんだ。しかしそういわれてみると、この小説は一事が万事最初から最後までこんなふうにそういうものどもを登場人物たちのまわりに並べられるだけ並べて「あの時代」を描写してるんだが、それはたんなる物語の時代背景というよりもそれ自体が小説の大事な部分になってる気がする。そうやっておいて作家はこれがいつのことだったのかなんてことをとうとう最後まで書かない。ようするにそんなことはもう読めばおのずとわかるでしょっていう小説全体が時代の刻印なのだった。

だから、そういうつぎつぎにあらわれるモノだのコトだのを読んで「そういう時代」を思い浮かべることが出来なければ、たしかにこれはなかなか楽しみを見出しにくい小説ってことになっちゃうのかもしれない。

しかし思うにそもそも向田邦子本人だってこれを書いたときにはすでにマンション暮らしで、三和土に上がり框に引き戸の玄関の家なんかには住んでなかったんじゃあるまいか。ようするにすべては過去の物語で、物語を支える情景はすべて向田邦子の記憶のなかから任意に選び出されて並べ替えられたものなわけだ。だから作家と記憶を共有できる読者には非常にリアルに「ほんの少し昔」のことの描かれた昭和のはじめのホームドラマとして読めるんだろうけど、そうでなかったらいきなり歌舞伎を見せられたガイジンみたいなことになっちゃうのかもしれない。

じつはおれを含めその日のメンバーの過半数にとって向田邦子という人はまさに親の年代ドンピシャなんだ。向田邦子は昭和4年生まれというから1929年か。ちなみにおれの母が昭和5年生まれだからまあみなさんだいたいそんなもんだろう。

だから一種この小説にはおれの親の生活のなかからおれが子どもとして垣間見ていたものの記憶のような、少し不思議な懐かしさとリアリティがある。おれは三和土に上がり框に式台なんて古風な玄関のついた家に住んだことなんかないけど、神戸の死んだ祖母が長年住んでいた大正時代に建てられたっていう借家には土を突き固めたホンモノの三和土までちゃんとあった。ついでに言うとその家には石の手水鉢だって五右衛門風呂だってあったが、祖母が亡くなってずいぶんたったあと阪神大震災でついに壊れて無くなった。

そんなふうであるから読書会のメンバーの大半と同様、おれらくらいの年齢の読み手がこの小説を読んで感じてるリアリティだって、じつはたかが知れたもんなんだ。なので若い仲間がこの小説をうまく楽しめないって言ったのとあるいはそれほどの隔たりがあるわけじゃないのかもしれない。それでもとくに注釈なしにこの小説に描かれた「少し昔」の当たり前の日本人の生活をアタマに思い浮かべながら読み進んでいくことができるのは、辛うじて親というフィルターを通して見た(じっさいには見てないものまで含めた)記憶の蓄積があるからにすぎないんだと思う。

もちろんこの小説のどこにも注釈なんてものはひとつだって付いてない。80年代の初めのころに書かれた小説に「注」をつけようなんて著者はもちろん編集者だってふつう思わない。おそらく今のいまだって出版社も古い読者もこの10刷まで版を重ねた文庫版にそんなものが必要だなんて思ってるひとは一人もいないんじゃあるまいか。

だけどね。たぶんもう上がり框やチッキや二号さんには注釈が必要になってるんだよ。
古い噺を語るいまどきの落語家が、吉原だの藪入りだのを説明してから始めるみたいにね。

たとえばいまの時代、まったく注を参照しないで漱石を読めといわれると、作品によるかもしれないけどおれはやっぱりそれはちょっとシンドイところがありそうな気がする。だけどおそらく漱石の作品だって書かれたときには「注」なんてものが必要とは思われもしなかっただろうし、いちいち説明しなきゃならないような読者なんて漱石先生は想定もしてなかったろう。いっぽう漱石は当時の世相をたくさん小説のなかに描き込んでいて、それが当時もこんにちも漱石の小説を読む楽しみのおそらく大きな部分なんだと思う。しかしそれをいちいち「注」を参照したり、あるいは辞書を引いたりしながら読むっていうのは、小説を楽しむという行為から読み手をどんどん引き離して否応なしに「お勉強」へと向かわせる。

たくさんの注に武装された文学作品を古典と呼ぶんだったら漱石はまぎれもない古典であって、注を必要としつつある向田邦子の小説もすでにして古典になりつつあるってことなんだろうか。というか注を付されてまで版を重ねていく小説が古典とされるのなら、流行作家のベストセラーが古典になるかならないかの、これは瀬戸際にあるってことなんだろうか。そう考えてみると少し前までさかんに読まれていた昭和の作家の小説のかずかずが、いまは本屋の棚に見ることもできなかったりするのはそれらが古典になりそこねて消えていきつつあることの証しだということなんだろうか。

とまあ、しまいには小説の本筋とは外れたところでいろいろ考えちゃったんだが、それもこれもいろんな世代や考え方の違う人間の入り交じったおかげで「あ」といってもすんなり「うん」とはならない読書会の、じつにまったくありがたいところだなあと思う今日この頃なのでありました。

まあそれはともかくとしてだな。
読書会のお題になって読み始めたのは写真右の文春文庫版なんだけど巻末に単行本に寄せた「あとがき」が収録してあって、そこに作家が本の題字を中川一政に書いて欲しいと願ったら装釘までしてくだすって感激したと書いてあるんだ。ほお、そうだったんですかと思った翌日たまたま神保町の古書店を冷やかしてたら好事魔多し! 左の単行本の初版が定価の900円より少しだけ高い値段で並んでるのを発見してしまったんだった。

小説は読み終わってしまったところだったのに、つい買ってしまった。
こういうときに思い止まれてたら、カネたまってたよなーおれの人生てば。

そしてきのう、上の写真を撮るのに文庫版のオビをはずしてみたところ、オビにかくれたカバーの折り返し部分に〈カバー・中川一政〉とあるじゃありませんか。ううむ。まあいいんですけど。ちょっと注意して見りゃあ文庫のカバーと単行本のカバーの手がそっくりだくらいわかろうものが。いやまったくその。文春文庫の編集者は「あとがき」を収録するについて、しっかり仕事をされてたってわけですもんね。

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ところでおれがチッキを使ったのは、この小説が発売になった81年ころ八戸駅から新橋駅止めで出張の大荷物を送り返したのが最後だったような気がします。そのあとはもうクロネコヤマトの宅急便の時代になったからね。
Commented by 虎吉 at 2013-09-21 09:15 x
ゴヂラ殿

 十五夜に十六夜、楽しまれましたか。
 お神酒がおいしゅうござったです。

 先だっての読書会の前半……だったんですね。
 三和土や上がりかまち、チッキは生活にないですね……。
 二号さん--「酒と□は、にごう、まで」っていってもポカンなわけだ。

 ところでテレビも同居人もなく、芸能界や流行、世事疎い小生は、若人の会話にはついていけないわけで、注というか語句説明してもらう場面があります。

 そのうち<新聞紙>ってのも注釈ですかね。
Commented by god-zi-lla at 2013-09-21 12:40
虎吉さん こんちわ。

十五夜の晩は歌舞伎見物してました。
染五郎の安倍晴明が立つ舞台後方には巨大な満月が。

おれ中学高校大学のころ藤沢のボロっちい借家に住んでたんですけど、そこの大家さんが近所の植木職の親方のじいさんで、ウチに来るときは絶対玄関コンコンなんてせずに小さい庭の縁側から「おう、どうだい」って入ってくるんだよね。

その雰囲気ってどこか「あ・うん」の時代と地続きな「昭和」だと思いませんか。だから、おれたちはなんとなくあの小説をすいすい読んじゃうんだと思うんだけど、若い人には結構珍紛漢なんでしょうね。

ところで、おれだって「じぇじぇじぇ」も「10倍返し」も要注釈です。
そんなものを「世事」と言わば言え、なんてね。
Commented by 宗助 at 2013-09-22 22:41 x
ゴジラ兄、秋ですね。
坪内逍遥が小説が描くべき第一は「人情」で、「世態風俗」がこれに次ぐ、と言っています。小説というものはまあ大概はこの二つのバランスで成り立っていると思います。漱石だって仰る通り逍遥の言う「世態風俗」描写が多くそれがまた生き生きして作品の魅力を増しているわけですが、加えてその中に描かれた「人情」に時代を超えて人々の共感を呼ぶところが多くあって古典として読み継がれるという事になるし、時代の経過とともに消えていった多くの小説は、そのような「人情」を描けていななかったという事になるんでしょうか。

向田邦子の小説がこれから時代を超えて注釈をつけた古典として読み継がれていくかどうかと言うのは微妙な線にあるのかなあ。100年後に樋口一葉のように読まれているかと言うとそれは難しいような気もします。
Commented by 宗助 at 2013-09-22 23:04 x
続き
山本夏彦が「突然現れて既に名人だ」と絶賛しましたが、とりわけ彼女の思い出すことの上手さは抜群ですね、この点では高嶺秀子と双璧だと思います。そういえば、高峰秀子の梅原龍三郎が向田邦子の中川一政になるのかな。

山口瞳、久世光彦などのうるさ型をぞっこんほれこませてしまう女性としての魅力もすごいなと思うのですが、これも高嶺秀子といい勝負(笑)
但し、向田邦子には微かな媚態ではないと思わせるような媚びの気配(漱石の言うuncoucious hypocrisyですか)があるところが、高嶺秀子との違いかな。

向田邦子が主婦にあまり人気が無いのはその辺の危険さを彼女たちが感じるからではないか、と言うのが私の推理なんですけどね(笑)
Commented by god-zi-lla at 2013-09-23 01:53
宗助さん こんにちは。

向田邦子のこの小説が古典として読み継がれていくのかいかないのかということについていえば、おれは読み継がれていかないと思ってます。

ブログには自分の読後感を書きませんでしたが(それがこの項の目的ではなかったので)、たいへん面白い小説だとは思いますがやっぱり映像化されてこそ真価を発揮するというか、小説の姿をしているけれど実のところはドラマの脚本なんだろうと思います。

なんというか、登場人物ひとりひとりの描写に演じる役者や演出家が作っていく余白をあえて残してある感じで、それ以外の背景部分よりも人物描写のほうが粗いという印象がおれにはあります。

だからテレビドラマなり映画なり映像化されたところで初めて生命が吹き込まれるというか、現役の俳優だったら「たみ」はだれがいいだろうか? 仙吉は? 門倉は? というように自分のアタマのなかで好みの役者を動かしてみるだけでも、すでにじゅうぶん楽しめますから、それはやっぱりすごい。
Commented by god-zi-lla at 2013-09-23 01:53
(続きです)
だから小説としては残っていかなくても、これからも繰り返し映像化されていく可能性は相当あるんじゃないかと思っています。たぶん向田邦子が意図して描き残した余白の部分に魅力を感じて。

それに映像で見るんだったら、上がり框に手を付こうが式台で平伏しようが鴨居にアタマぶっつけようが(それはなかったか)説明不要ですし(笑)

それから主婦に人気がないというのは、おそらく向田邦子と同世代か近い世代の主婦のことじゃないでしょうか。うちの奥さんなんかの世代になると、生前の向田邦子という人は才能ある女性が颯爽と仕事をしてお金を稼ぎオシャレをして贅沢をして格好良く生きる、憧れの女性のひとりとして当時は見ていたようです。
Commented by 宗助 at 2013-09-24 10:42 x
ゴジラ兄 ちょっと筆が過ぎたかと自分でも気になって、犬友の50代主婦に訊いてみました。やはり仰る通り彼女の答えは「お洒落で綺麗、グルメ・女性誌にも良く取り上げられてたし・・・」でした。
思い出しましたけど、彼女の妹さんがかって赤坂でやっていた「ままや」という店の近くに「ととや」と言う割烹があって、そこの板長が「最近でも、そちらは向田さんがやってらっしゃったお店ですか?」という電話が良くかかってくるといってました。それからこの頃は女子大に向田邦子研究会なるサークルもある由で、彼女は若い女性の憧れの女性の一人だとという事は今もその通りのようですね。

どうも私は彼女の作品を、作品自体でなく週刊誌的にというか山口瞳や久世光彦の眼を通して読んでるようで、ちょっとまずいですね。山口瞳は男性自身で木槿の花と言うタイトルで男性自身に10回近く連続で書きました(三島さんが死んだ時以来ですね) その中で、一番印象に残ったのは「彼女はその時あっている人に最も信頼されていると思い込ませてしまう名人だったという人もいる」と言う文章でした。

彼女はやはりある種の日本的なファム・ファタールだったんだな、と思うんです。
Commented by ハルズ at 2013-09-25 11:14 x
理解できない文、詩、俳句、音楽、美術 その他諸々.....。
なぜ解らないか、というとたった一つ。
自分の能力に欠けるという事に尽きます。
とことん経験する事、学習して想像力を高める事、また、事実かどうか追及する姿勢が欠けると、他人の作ったもの、過去に作られたものが理解できなくて当然です。
時代のせいにしてはいけません。
私はインテリになれと言っているのではありません。
遊びで結構、趣味結構、その道を楽しもうとしたならば、ある程度は追及しないと、面白くないとおもいますが。

昭和の庶民の生活ぶりは、小津や黒沢の映画でも存分に出てまいります。
与えられすぎた消費者になってはいけません。
って、何を言っているんだ、私は。
Commented by god-zi-lla at 2013-09-26 09:20
宗助さん。

じつは思ったことがあって、くだんの読書会のときにも結局いちばん話が盛り上がったのはこの作品よりも向田邦子という人物そのものについてでした。それからドラマや映画と小説の評価をうまく切り離すことができなというところもありました。

もしかしたら、こういうタイプの作家というのは男女通じて例がないのかもしれないと思ったりもしますし、戦後を代表する文学のひとつとしてこの小説が残っていくってこともなさそうな気がします。

しかしテレビドラマ史のような部分では残っていくのは間違いないんじゃないでしょうか。少なくともリメイクされているオリジナル作品がいくつもあるというだけで、映像作品の脚本家として突出してるのは間違いありません。それはもう文句なしにスゴいことだと思います。
Commented by god-zi-lla at 2013-09-26 09:58
ハルズさん こんにちは。

おっしゃるところはすごくよくわかります。横着しないでそのくらい辞書でもなんで引いて勉強して読んでこいよって感じですよね。

それはもちろんそうですが、発言した本人がそれをしてこなかったってことではないんです。それに、多分そういう意味の発言だったとしたら、だれかが「辞書引いてきなよ」って言いそうな、けっこう辛口なところもある読書会です。

ただ三和土とか上がり框とか式台なんてのが小説のキモなわけがないと思うのがふつうなわけで、そういうディテールのひとつひとつをいちいち調べてたんじゃ小説を楽しむところまでなかなか行けないっていう気持ちはよくわかります。

しかし仮にこれが漱石の小説だったとしたら、そういうところはわからないままにすっ飛ばして読み進めても(おれはわりかしそうしてますが)、描かれた人物の陰影や心理に引き込まれていって、それだけでじゅうぶんだったりもするわけです。
(続く)
Commented by god-zi-lla at 2013-09-26 09:59
(ハルズさん、続きです)

翻って向田邦子のこの小説は、間違いなくそういうディテールを読むところが(とくにそれを知ってる読者といっしょに懐かしむような感覚が)一種の読みどころになってるのは間違いないわけで、そうするとそこに若い人が抵抗を感じてしまうのも、ある意味自然なんじゃないかと思ったりもするんですよね。

それとテレビドラマや映画だったら昭和の初めのころの日本家屋のセットを大道具さんが作るなり、そういう建物を探してきてロケするなりすれば説明不要の「昭和の家」が出現するわけですが、それを小説で再現しようとするといきなり上がり框だの式台だのっていう聞いたこともない言葉で説明しなきゃならなくなってしまうということでもありそうです。

じつはブログを書き始める前に念のためと思っていろいろ辞書で引いたんですが、「上がり框」は自分が知ってるつもりだったことは少し間違ってたということがわかりました。

かといって、正しい意味を知ったから思い浮かべた情景が変わるかというと、まるでそんなことはありませんでした。ようするに向田邦子だってそこまで厳密に言葉の持つ意味どおりに上がり框を使ってるわけじゃないということだと思います。
Commented by god-zi-lla at 2013-09-26 10:04
ここまでコメントくださった皆さま!

いやー、長いコメントを熱心に書き込んでいただいて、ホントうれしいっす。
こういうの、大好きなんですよね。

これからもバンバンよろしくお願いします。
おれも突っ込みどころ満載のブログになるよう、さらに努力する所存でございます(笑)
どうか今後もこのブログで遊んでくださいませ。
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by god-zi-lla | 2013-09-20 10:09 | 本はココロのゴハンかも | Comments(12)