神はどーだっていいとこに宿る


by god-zi-lla

この2か月で読んだ本の備忘録

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暑いねえ。
左から。

虫喰仙次 色川武大(小学館P+D BOOKS)
細野晴臣 録音術 ぼくらはこうして音をつくってきた 鈴木惣一朗(ディスクユニオン)
瀬川昌久自選著作集 チャーリー・パーカーとビッグ・バンドと私1954〜2014(河出書房新社)
コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。 1960-1973 片岡義男(光文社)
村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝 栗原康(岩波書店)
モナドの領域 筒井康隆(新潮社)
津軽世去れ節 長部日出雄(津軽書房)

小学館の〈P+D BOOKS〉というのは
後世に受け継がれるべき名作でありながら、現在入手困難となっている作品を、B6判ペーパーバック書籍と電子書籍で、同時かつ同価格で発売・発信する、小学館のまったく新しいスタイルのブックレーベルです。
と巻末に紹介がある。なるほどね。親本は福武文庫とあるから出版社をヤメちまった大企業から貴重な本を救出してくれたわけだ。小学館だって大きな会社でしょうに、こういう仕事にちょっと出版社としての矜持を垣間見たようではあるね。

なによりそれはこの短篇集を読んでみると、こんな作品が埋もれてしまうなんてホントにもったいないことだって心の底から思えたからでもあるわけでさ。

色川武大の小説にとって父親は非常に重要なモチーフなんだが、その父の生涯について今までに読んだ作品にはない描写がこの短篇集にはたくさんあって、なるほどそういうことだったのかと腑に落ちたことがこれを読んでいくつもあった。

色川武大の未読作品は見つけたら買って読んでるんだけど、おれはなにに心惹かれるのかというと多分「人間の弱さ」だけを親しみを込めて深く見つめてるからなんじゃないかという気がしてる。

元職業軍人の父とその息子である色川武大自身について多くの小説のなかで触れてるわけだけども、生前あまり反りの合わなかった表面的には職業軍人らしい剛直さを見せる父親のなかに、小学生のころに始まった「無頼」の生活からずるずると文筆の世界に入ったこの作家はたぶん自分とまったく同質の「弱さ」を見出していて、年を経るに従ってその父の「弱さ」を深く愛するようになっていったんじゃあるまいか。

この短篇集はそういう弱い父や弱い叔父や、それから弱い自分についてじつに柔和で慈しみ深い視線が注がれているところが、おれはすごく良いなあと思うんだよ。まあ人生ナニゴトにも前向きな人向けの小説じゃないかもしれないけどね。

鈴木惣一朗が細野晴臣を見つめる目ってのも一種「愛」なんだろうな。そしてこの人は聞き書きの達人でもありますね。それにしてもこの本には、うひゃあーっていうような「名言」がいくつもあって、それは本筋のところではないんでしょうけど、それがまたすごく心に残るんだ。
— ご自分の作品のアーカイヴは? ファイルもないんですか。
田中(信一) 残してないですよ。
— まったくですか。
田中 まったく! だって、いらないですよ。そのうちそうなるって鈴木くんも。
— そういう境地になるものですかね。
田中 記憶に残ってればいいんですよ、音楽は……。
— そうですかー。
これを読んだせいなのか、おれはここんとこ〈トロピカル・ダンディー〉と〈泰安洋行〉を繰り返し繰り返し聴いてる。

向こうから来たというのは、いくつかのきっかけがあったことはお話ししておいたほうがいいと思います。現在93歳になられる日本の優れたジャズ評論家がおられますけれども、その方が12月8日の夜、あるジャズのレコードを聞きまくっていたという話があるんですね。『今晩だけはジャズのレコードを大きくかけるのはやめてくれ』と両親に言われたという話があり、その話を読んだときに、私はその方に対するおおいな羨望(せんぼう)を抱きまして、結局、1941年12月8日の話を書きたいなと思っていたんですが、それが『伯爵夫人』という形で私の元に訪れたのかどうかは、私の中ではっきりしません」〜朝日新聞デジタルより
れいの蓮實重彦の受賞会見の記事だが、ここにある93歳のすぐれたジャズ評論家というのが瀬川昌久なのは言うまでもないことで、この自選著作集のなかに蓮實と瀬川の対談が収められており、その中でも日米開戦の夜のエピソードについて触れられている。

これがまた面白い対談なんだけどね。老マニアふたりが戦前戦中戦後の映画と音楽について大いに盛り上がるんだけど、そこはなんというかさすが斯界の泰斗二人といいますかお互いの記憶を確認しあうような精巧さみたいなものもあって年寄りの無責任な言いっぱなし的なところのない、おれみたいなモンガイカンにもすごく勉強になる対談なのであった。

それはあくまで巻末付録的な対談であって本文には1950年代前半から2014年にいたる評論が集められているわけだ。いやしかしその半世紀を優に超える長さもさることながら首尾一貫して「ビッグバンドジャズは良いものだぜ」っていうのをメインテーマにして、ビッグバンドというくくりの中にあればフリーだろうがスイングだろーが分け隔てなく良いもの優れたものを見出して紹介していこうっていうスタンスが通読してみるとやっぱりすごい。

スタン・ケントンやウディ・ハーマンもちゃんと聴いてみなきゃと思う今日このごろ。

片岡義男の短篇集は60年から73年の東京のしかも片岡義男の実際の立ち回り先を舞台にした短編というより掌編とかショートショートとでも言ったほうがいいようなごく短い小説が時系列に並んでる。

この「実際の立ち回り先」と「時系列」がたぶん大事なところで、片岡本人と思われる「僕」は東京の街中をあちこちと歩き回りながら、ページを追うごとにちょっとずつオトナになっていく、コトバも行動も。

たとえば「僕」が神保町の北側にある靖国通りと平行した裏通りの喫茶店で原稿を書いていて、そこから次の喫茶店に行こうとすると雨が降り出し、なるべく濡れないようにその喫茶店に向かうために一旦地下鉄の入り口を降りて靖国通りの下をくぐったところで別の出口を昇り、そこから目と鼻の先の裏通りにあるもう一軒の喫茶店に辿り着くんだが、いまの表示でいうと「僕」は「A5」の階段を降りて、ちょっと迂回しながらたぶん「A7」の階段へ抜けている。「僕」が2軒目に入った喫茶店はそこに今もある。

神保町はおれにとっちゃ70年代も今も親しい街だから読めばそれがどこかほとんど手に取るようにわかるんだけど、たぶんおれの詳しくない街の描写も手に取るようにわかる人にはわかるんじゃないかと思う。だからそこで起こったことが事実かフィクションかは別として「僕」の歩く道筋はすべてリアルだ。たぶん登場する1軒1軒の喫茶店や酒場の店のなかもリアルなんだろう。

そうやって現実の街を歩きながら「僕」は絶妙に歳を取っていく。注文原稿を待ち合わせの喫茶店で手渡す編集者が最初のころはだいぶん年嵩のようで大学出たての「僕」は敬語を使って話している。それがだんだんとそうでなくなってお終いのころにはほとんど友人のような口のきき方になっている(けど、まだ『先生』ではないから先方が敬語を使うところまではいかない。そこが『僕』の1973年ということなんだろうな)。

で、なにが起こるということでもないんだ。起こっても行きつけの酒場の女と雪の夜、旅館に泊まっちゃうくらいなものだ(あまりに片岡義男的に格好良すぎるけど)。喫茶店で原稿を書く。場合によったら喫茶店をハシゴしながら原稿を書く。また別の喫茶店で編集者と待ち合わせて原稿を渡す。そしてたまには酒場で待ち合わせしてウィスキーを飲む。酒場の女と話をする。

そうやって喫茶店から喫茶店、酒場から酒場へ歩いているうちに「僕」は少しずつオトナになっていき、そしてそれら喫茶店や酒場ではレコードの音楽が必ず聞こえている。
そういう連作短篇集だ。どうです、面白そうでしょう。

いかん、最初の4冊だけで長すぎる。ええい。

この書名は伊藤野枝のコトバを引いたわけじゃなくて著者が思いついたんだな。んー。まあ全体としてそういうところの多い本だ。

老巨匠の長編に何か申し上げるようなこともありません。最後といわずも最低もう1作ぜひ。

長部日出雄は下北沢B&Bの棚で見つけた。いまや本屋とは探してないものを見つけられなければ存在価値がありません。弘前の出版社の本。
Commented by s_numabe at 2016-08-05 09:54
なんだか素敵なラインナップですね。どれもこれも読みたくなる。てか、片岡義男のは既読でしたが。なるべく手持ちの本は増やしたくない今日このごろなんですが、こういう記事を読んじまうと、もう・・・。
Commented by god-zi-lla at 2016-08-05 14:43
s_numabeさん お暑うございます。

いやあ、面白い本てのがいつも寄るいくつかの本屋を覗くと必ず伏兵のごとく現れて、気が付けば買うつもりなんて全然なかった本がどんどん増えてしまいます。

で、それとは別に「これは読んでおいたほうが良さそうだな」という本をAmazonで注文してしまったりして、それはそれでまた増える。

困ったもんです。
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by god-zi-lla | 2016-07-31 14:02 | 本はココロのゴハンかも | Comments(2)