swingin' godzilla ! (Kouichirou "ゴジ" Okada)
2024-03-19T07:48:49+09:00
god-zi-lla
神はどーだっていいとこに宿る
Excite Blog
春のはじめのうろうろ日誌
http://sgodzi.exblog.jp/29977518/
2024-03-18T14:00:00+09:00
2024-03-19T07:48:49+09:00
2024-03-17T15:49:15+09:00
god-zi-lla
日日是好日?
桜が咲き始める前に、ここんとこのフーテン老人徘徊絵日記など。
2月某日と某日。
歌舞伎座は『猿若祭』と銘打って十八代目勘三郎の十三回忌追善公演。
早いねえ。
正面脇に貼り出されたポスターは左端が勘九郎と長三郎の『連獅子』。ちゃんと踊れるようになった次男坊もたいしたモンだが、父ちゃん毛振りに気合い入りすぎ。ムチウチになっちまうぜ。
その右は長男の勘太郎。兄ちゃんがまた折り目正しいんだ。
次は勘九郎七之助の『籠釣瓶』、右端は鶴松の『野崎村』。鶴松大抜擢のお光っちゃん。『籠釣瓶』に兵庫屋七越で七之助とともに花魁道中をやった中村芝のぶも含め、もっともっと「抜擢」し続けないと歌舞伎は滅びる。
2月某日。
夜、シアタークリエでケラの『骨と軽蔑』。
歌舞伎は男ばっかしの芝居で、こっちは女ばっかしの芝居だけど女が男やってるわけじゃなく男が出てこない。
クリエって小屋は初めて入った。もとは「芸術座」のあった場所で東京宝塚劇場の向かい。
宮沢りえに鈴木杏に犬山イヌコほか、期待してて実際面白くもあったんだけどアンプリファイドされたセリフが少し残念。できれば芝居はナマ声で見せてほしい。客寄せに演技トーシローなアイドルでも出てりゃ致し方なけれど、このキャストでなんでなんだ。
もしかしてこの小屋のそれが方針?
某日。
国際フォーラム中庭(っていうのかね?)恒例の『大江戸骨董市』。外国人観光客たしかに増えたけど、意外と遠巻きに遠慮がちなのはこういう「市」に慣れない客が多いか。日本人でも外国人でも好きなヤツらはみんな(おれも含め)気になるブツがあれば遠慮会釈なく突撃してくるからね。
ところで骨董市、ここんとこ3回に2回は手ぶらで帰ってくるけど今回は獲物あり。
武井武雄の『刊本作品』。古書を少しだけ並べてちんまりした店を出してたおじさんのところで豆本数冊のなかに混ざってるのを発見。虫喰いなど状態あんまり良くない。でもそのおかげで安いからオッケー。うふふふ。
中身こんな感じ。革装金箔押函入り。35/265。昭和27年刊。
この骨董市で今まで陶磁器、紙物、レコードなんかは買ったことあるけど「本」はまるで初めて。
うふふふふ。
某日。新入りの「すきまタワー」。こんなところにはなーんの興味もないんだけど新しい本屋が出来たと聞きつけて来てみた。
タワーの手前でナナメってるのは昔からある新興宗教の大屋根。
東京タワーより少し低くて大阪のアベノなんちゃらより高いのが自慢らしいビルディングは、麻布台ヒルズという新開地にできたこれなのだった。この中にその本屋があるというんだから仕方ない入ってみるか。
一瞬本屋に見えなかったけどひと回りしてみると意外なくらい当たり前な棚の構成。
京都の大垣書店の関東初の店。リキ入ってるのはよくわかるけど、基本、このへん駅に近いわけでもなく住宅街でもなくオフィス密集地でもなくて本屋の立地として良いとは思えないから、なんとか長く続くように頑張ってほしいもんだ。
しかし大垣書店すごいよね。もう京都に店出すとこないんだろうな。
むかし北大路の本店に何度か行ったことがありますけど、ちょっと大きめの「町の本屋さん」でとても良い感じ。
某日。夜の歌舞伎座。
午後8時15分に始まる舞踊劇『喜撰』を見に幕見席。
開場前の幕見席入り口。
ドアには「集合 7:55」とあり。
この夜の幕見にはドイツ人のお客多し。まわりでドイツ語ばかりきこえる。
ドイツ語だってことしかわかんないんだけどね、こちとら。
肝心の『喜撰』は梅枝が良い。松緑もさすが。ちびっ子所化3人がカワイイ。
某日。
もひとつ「すきまタワー」。
いずれ近い将来この位置からタワーは見えなくなる。
麻布十番からほど近く、一の橋と二の橋の間。住所でいえば東京都港区三田1丁目。この一帯ついこないだまで低い軒の連なる東京の古い町場だったところで「再開発」のために町場は消えてなくなり更地になった。
手前の鉄パイプの「欄干」は古川にかかる橋。
数年後には上の麻布台ヒルズなんかと似たような、どこがどの「ヒルズ」だかわかんない無機的で無個性なビルディングの集合になるのは間違いない。
こんなとこばっかです、きょうびのトーキョーは。
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DSMといっても、ハナシは思いっきり横道
http://sgodzi.exblog.jp/29951352/
2024-03-14T16:10:00+09:00
2024-03-15T18:38:02+09:00
2024-03-10T19:32:27+09:00
god-zi-lla
常用レコード絵日記
つうわけでデヴィッド・ストーン・マーティンの一応続きみたいなもん。
読み終わって自分ちのレコード棚を見てみたところ、おれんちにデヴィッド・ストーン・マーティン(以下、DSM)の描いたレコードは3枚しかない。
そういえばそうだった。
ところで。本のなかでムラカミ先生も書いてるように、ノーマン・グランツは40年代から50年代はじめにクレフやノーグランから出したSP盤や10インチLPをコンパイルし、後年ヴァーヴレーベルで12インチ化した。だけどそれらにDSMのイラストレーションはほとんど使われてない。
まあ、10インチ四方のジャケットに合わせたデザインを12インチに流用してもスカスカな感じになってよろしくないってのもあるんでしょうが、そこはグランツも商売人。DSMのジャケットデザインではもう古臭くて、若いリスナーにアピールしないと判断したんじゃないかしらん。
これはウチにある《Charlie Parker With Strings》。クレフの10インチ盤2枚を後年ヴァーヴで12インチにまとめたもので、ムラカミ先生は本文15頁でこのアルバムのことを嘆く。
”それに比べると後年一枚にまとめられたヴァーヴ12インチ盤のなんと凡庸なことか!”
まあ「凡庸」ではありましょうが、『!』まで付けられちゃうかなあ。べつにこのジャケットにはなーんの思い入れもないんだけど、長年ウチの棚に住んでるものをクサされると意味もなく口惜しかったりして。棚子といったら子も同然。なんちて。
たしかに元になったDSMの描いた10インチ盤2枚のうちこっちのほうは結構いいかなとは思うんだけど、モンダイはもう1枚のこっち。まったくDSM以外に類を見ないイラストレーションで「凡庸」さのカケラもないってばそうでしょうけど、おれにはどうもなぁ。
ま、せっかく引っぱり出して写真まで撮ったんだからついでに「中身の音楽」のことを言いますが、おれはこのアルバム(の音楽)が大好きなのだった。
ジャズの 'ウィズ・ストリングス' 物ってクリフォード・ブラウンの有名な盤を含め、どれもあんまりグッとこない。なんかバックで鳴るヴァイオリンやチェロの「美音」に酔って、プレイヤー自身がキモチ良くなりすぎてんじゃね? なんて思ったりする。
そこいくと、このアルバムのチャーリー・パーカーは自分にもバックにも酔ってなくて(もちろんドラッグでラリってもなく)正気を保ってプレイしてる。イマドキの言い方すればここでのパーカーはいつもどおりに「攻めてる」。いやホントこのアルバムとってもいいんです。
とんだ枝線に入ってしまった。
ついでだから、枝線その2。
そんなわけでDSMジャケットのレコードを「ジャケ買い」したことはありません。
以前書きましたけど、いっとき野口久光画伯のジャケットを探し出しちゃあ何枚も手に入れたことがあった。ある特定の絵描きさんのジャケットを意識して(しかも中身の音楽を二の次にしてでも)買ったのは野口久光しかない。
アルフレッド・ライオン時代のブルーノートにはアンディ・ウォーホル画のジャケットが何枚かあって、それは欲しいと思ったことがあったけども、中身の音楽を欲しいと思わないままここまで来てしまったもんだから、ウチには1枚もない。
まあそんななかでウチにある数少ないDSM自慢タラタラ。
ジャンゴ・ライハルトの《THE GREAT ARTISTRY OF DJANGO REINHARDT》、ムラカミ本の112頁に登場するクレフレーベル1953年録音の10インチ盤。
このアルバムは真偽未確認ながら、LPレコードとして(つまりSP盤の再発でなく)世に出たジャンゴ・ライハルト唯一の録音と言われてる。それで手に入れて聴いてみたんだけどジャケットがDSMの手になるとは現物見るまで知らなかった。
でもさ。このギタリスト、まるっきりジャンゴに似てねーじゃん。初めて見たとき、まずそう思った。DSMがどーとかじゃなく。
なにこのツルリンパとした顔は(ジャンゴはキザっぽい口髭をたくわえている)。それに、うしろに自転車コケてるし(学生かよ)。だいちギターがアンプらしきものに繋がってて、ジャンゴってセミアコ弾いてたんだっけ?
今回、ムラカミ先生の本を読んでみるとこの絵のギタリストはジャンゴじゃなく、DSMは息子をモデルに描いたとあるじゃないですか。どーりで似てないハズだよアカの他人なんだから。
ところでここでのジャンゴはピアノとベースとドラムスというリズムセクションを従えてプレイしている。ヴァイオリンはいない。これはおれの勝手な思い込みかもしれないけど、ステファン・グラッペリなどのヴァイオリンがいなくてドラムスが入ってるバンドだと(このアルバムに限ったことでなく)ジャンゴのギターがすごく「ジャズっぽく」きこえる。
ジャンゴ自身はちがうことをやってるわけじゃないのでしょうが、マヌーシュ・スイングとかジプシー・スイングとかいった風情がずっと後退して「ジャズ」になってる。
ジャンゴは53年5月16日に亡くなった。このアルバムはそのひと月前に録音されたとライナーノートにノーマン・グランツが記している。
「遺作」といっていいんだろうか。
Charlie Parker With Strings -- midnight jazz at carnegie hall(Verve ポリドール20MJ0017)LP
The Great Artistry Of Django Reinhardt(CLEF MGC-516)10inch LP
もうちょっとやるか
to be continued
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2011年3月10日は
http://sgodzi.exblog.jp/29951544/
2024-03-10T22:15:00+09:00
2024-03-10T22:43:11+09:00
2024-03-10T22:04:01+09:00
god-zi-lla
未分類
朝)
チーズオムレツ
ポークソーセージ
サトウサヤ
トマト
キュウリ
ご飯
昼)
けんちん汁の残りにうどん投入
夜)
デパ地下弁当
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このブログの、本人以外には見えない「非公開」エントリに毎日三度三度食ったものを記録してた。
2011年3月10日まで毎日。
多分その夜遅くに入力して、以来、再開せず。
食ったものを書き留めておけばいろいろ役に立つこともあったんだが、あの日、そんなことをやっても虚しいだけだと思ってしまい、その気分がついに消えることなく13年が経った。
上の3食の記録が最後になった。
その日のブログの「可視部分」には前日の9日に六本木へバッドプラスのライヴに行き、青山ブックセンターで本を買ったと記してある。もちろん翌日東日本を巨大地震が襲うなんてことは書いてない。
2011年3月10日はふつうに夜になり、3月11日の朝もふつうに来た。
2011年3月11日、ふつうの夜はなかった。
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そして、2024年3月11日の朝はふつうに来るか。
寝て起きて、明日このブログをどんな気分で見ることになるか。
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いつか出すんだろうなと思ってたが、DSMとはね。
http://sgodzi.exblog.jp/29929724/
2024-03-05T12:58:00+09:00
2024-03-05T18:05:38+09:00
2024-03-04T14:30:17+09:00
god-zi-lla
本はココロのゴハンかも
《デヴィッド・ストーン・マーティンの素晴らしい世界》。なるほど、そうきたか。ムラカミ先生といやあ「ちょっと古いジャズ」だもんな。デヴィッド・ストーン・マーティン(以下、DSM)のイラストレーションに飾られたクレフやノーグランやヴァーヴの、とくに10インチ盤といやあ「ちょっと古いジャズ」の宝庫だもん。
《古くて素敵なクラシック・レコードたち》って愛らしい本をムラカミ先生が出したのは2年前だった。きっと、出た直後から同じような本をジャズレコードでも作ってほしいってリクエストがたくさんあったにちがいない。そりゃそうに決まってる。
そしたら去年、『更に』を書名のアタマに付け足した《クラシック・レコードたち》の続編が出た。おれなんかは大いに喜んだものだったが、「古くて素敵なジャズレコードたち」じゃなくてガッカリしたひとも多かったんじゃあるまいかしらん。
それにしてもアレだな。こういうレコード本を毎年のように出してるのって、ムラカミ先生よっぽどこの仕事が楽しいんだろうな。万単位でアルバムの納まった自分のレコード棚から選び出し、それを順に並べ文章を添えていく。
単純に「作業」として考えただけでも、時間もかかりそうだし結構大変そうじゃんか。それ自体を楽しんでないと絶対できないと思う。いやほんとにそう思います。そしてムラカミ先生が作業を(多分)楽しんだ結果、楽しい本がまた1冊出来た。
だけども前の2冊がクラシックレコードについての本で、こんだのはその「ジャズ編」かっつうとこれはそう単純なモンではない気がする。
最初の1冊《古くて素敵なクラシック・レコードたち》の巻頭に『なぜアナログ・レコードなのか?』という文を先生は掲げて
僕はジャズ・レコードに関してはいちおうコレクターの端くれとして、それがオリジナル盤(初回プレス盤)かどうかとか、ジャケットの傷み具合はどうかとか、盤質がどうかとか、そういう細部にある程度こだわるのだが、クラシックに関してはそんなことはべつにどうでもいい。稀少盤を集めるよりは、バーゲン箱をせっせと漁っている方がずっと楽しい。
と言っている。そしてまったくそのとおりの本に最初の2冊の『クラシック』と、今回のDSMは仕上がってる。
しかしアレだよ。DSMの描いたジャズレコードのジャケットったって、おれはノーマン・グランツのレーベルでしか見たことがない。しかもそれは40年代から50年代の限られた時代のことだから、今度のこの本でムラカミ先生が採り上げてるのはものすごく狭い範囲の(それこそ針の先で突っついたくらいの)、ものすごくマニアックな、どう考えたって一般的とはいえない世界なのだった。
そのうえ、DSMのジャケットって、見たひとの十人が十人、みんなが「いいよねえ」というようなモンでもない。なんじゃこりゃ、みたいのも結構多い。いやそれこそおれなんかは、この本で初めて見た「なんじゃこりゃ」系がいくつもあったもん。
でもね、それでいいんだ。そんくらい一般的でない、ある意味「特殊な」ジャズレコードのジャケットをカラー図版入りで200枚近くも収録した書籍が、僅か2300円+消費税で手に入るんだ。
しかも村上春樹の素晴らしいエッセイ付きなんだぜ。
それにしてもDSM、デヴィッド・ストーン・マーティンとはなあ。
まあムラカミ先生がまさかBLUE NOTEのジャケット本を作るなんてことは鼻毛の先ほども思わなかったけど、なんていうかな、考えてみればある意味「硬派」かつ「挑発的」な本だよなあって気がする。
こんなこと言っちゃあナンだが、BLUE NOTEレコードの完オリのコンプリートコレクションなんて(年々難しくなってはいるんでしょうけど)莫大なカネさえ持ってればなんとかなる。だけどそこに見えるのは、こういう音楽が好きで好きで大好きで、だからレコードもいろいろ集めて長いこと聴き続けてきましたっていう、そのひとの「人となり」とか「人生そのもの」とかいうもんではない。
村上春樹というひとがレコードを買って聴くようになったのって、もちろん作家になるよるずっと前のことで、つか、作家になろうと初めて思ったときよりさらにずっと遡ったティーネイジャーのときだったにちがいないわけで、つうことは村上春樹というひとの人生に関わっている時間ということでいえば、創作とか小説とかいうものよりもずっとレコードのほうがたぶん長い。
だからどっか、村上春樹がレコードについて語ったり書いたりするときって、その「人となり」とか「人生そのもの」がちらちらと見えたり隠れたりして、だからこそとても面白い本が出来上がる。
基本的にこの本って「レコード自慢」なんだと思う。いやー昔っから1枚1枚、DSMのレコードを見つけちゃ買ってたら、いつのまにかこんなにたまっちゃったのよねー。そんなつもりじゃなかったんだけどさー、なんて言いながら誰彼となく自慢するっていう感じ。
だけど1枚1枚に、おーこれは誰もホメてなかったけどいい演奏だよなーとか、ジャケットはいいけど中身はちょっと好みじゃなくて失敗したかなーとか、そういう長年レコード買い続けてきたニンゲンにとったらすごくよくわかる悲喜コモゴモが込められてて、だからレコード自慢がイヤミにならない。
ヘンな言い方かもしれないけど、前の2冊の《クラシック・レコードたち》に出てくる千枚近いレコードの大半はとりとめがなくて、それを持ってるからって自慢になるようなモンではない気がする。対するにこのDSM本に登場する188枚の多くは結構なコレクターズアイテムである。
ムラカミ先生の書きようも《クラシック・レコードたち》のほうは結構好き嫌いがまっ先に出てたりして、自慢しない(つか、自慢するようなモンじゃない)ぶん気楽でざっくばらんで好き邦題な感じ。いっぽうDSMのほうは「コレクター」としてあんまり後ろ指さされるようなことは書かないようにしとこうかなって気分が見えるような気もする。なんというか、慎重というか緊張感が高いというか折り目正しいというか。
だから、クラシック2冊やったから次はジャズね、っていうんでは多分ない。似たようでいて、込められたものは同じではないんじゃないか。
装釘からして《クラシック・レコードたち》のほうは塩ビの透明箱入りの小さな正方形のソフトカバーで、こんだのDSMはA5判変形つう単行本としたらやや大判のハードカバーとまるでちがう。《クラシック》の2冊は可愛い作りで「愛蔵版」と呼んでみたくなるのに、今度のやつはどっちかつうと無骨というか生真面目というか、正面切って前の2冊とは別コンセプトですと主張してるとしか思えない。なにしろ装釘家は同じひとだから、同じような本にしようと思えば出来たはずなんだ。
デヴィッド・ストーン・マーティンの素晴らしい世界 村上春樹(文藝春秋)
… to be continued
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東京の雑踏で見かけたマエストロ(さようなら小澤征爾)
http://sgodzi.exblog.jp/29868519/
2024-02-16T22:14:00+09:00
2024-02-17T08:55:10+09:00
2024-02-12T17:29:09+09:00
god-zi-lla
常用レコード絵日記
二度、街中で小澤征爾を見かけたことがある。
一度目はもう30年以上むかし、東京駅の中央コンコース。人、人、人で溢れかえったあの広いコンコースを携帯電話を耳に当ててよく通る声で通話しながら、おれの10メートルくらい先を大股でナナメに突っ切ってくるモサモサ頭でデイパック背負ったおじさん。
一瞬で "世界のオザワ" とわかる。
あのころの小澤征爾は山本直純のテレビ番組『オーケストラがやってきた』に時々出演してたから、顔かたちだけじゃなくその声も口調も世間に知られてた。だから、あ、オザワセイジだ、って雑踏のなかでもすぐに気づいた。っつうことは結構大きな声で電話してたんだな。
それから二度目に見たのが10年、いやもう少し前の冬の、こんどは銀座。四丁目交差点の三越脇、晴海通り側の歩道を数寄屋橋方向へ向かって、ちょっと険しい表情のボワボワ白髪頭の小柄なじいさんと、このときは肩が触れるかと思うくらいの距離ですれ違った。思わず振り返って見ると、そのボワボワじいさんは地下鉄の階段を降りて行くのだった。
一瞬で "世界のオザワ" とわかる。だけどもあのときのすたすたと雑踏を突っ切るエネルギッシュな壮年は、人混みでやや苦しげな老人に変貌してたのだった。
まあ著名人を見かけたりすること自体珍しいわけじゃない。だけどなんていうかな。どっかの店やら劇場のロビーやらで見かけたとか、たまたまロケの現場を通りかかったとかでなく、たんなる「通行人」として人混みですれ違って気づくなんてことは、さすがの東京でもそうそうない。
東京駅コンコースを颯爽と行く "世界のオザワ" は、新幹線を降りて山手線か中央線に乗り換えようって感じの「コース取り」だった。
銀座の三越横を歩く老マエストロは地下鉄に乗ろうとしてたのか。あの階段降りたらすぐ目の前が銀座線の改札だ。
どちらのときも小澤征爾はひとりだった。ツレがいない。マネジャーとか友人知人とか取り巻きとか、そういうの一切なしの単独行。しかもどっちも東京有数の人混みだ。
ふつう、ああいう人たちはクルマで移動するんじゃないのか。だからおれら一般の通行人と雑踏ですれ違ったりしないし、それにいつだってぞろぞろと取り巻きを引き連れている(ことによったらボディガードまで)。それが著名人、それもワールドクラスのゲージツ家についてのパブリックイメージってヤツだ。
だから、そうじゃない小澤征爾がいつまでも記憶に残ってるのだった。
こんなどうでもいいハナシをしてるくらいだから、おれが小澤征爾の熱心なファンだったわけはない。ライヴにも行ったことないし。松本市のサイトウキネン・フェスティバルには二度行ってるけど、どっちも《兵士の物語》を見に行っただけだし。
そうはいっても小澤征爾のレコードCDは何枚か棚にある。最初に買ったオザワのレコードは40年くらい前、バルトーク《中国の不思議な役人》じゃなかったかな。たぶん間違いない。
でも、この半年ばかりよく聴いてるのは上の写真の2枚のLPのうち左のほう、《ウィリアム・ルッソ/ブルーズ・バンドとオーケストラのための3つの作品 バーンスタイン/『ウェストサイド・ストーリー』からシンフォニック・ダンス》。
ただなんとなく《ウェストサイド・ストーリー》を聴いてみようかと思って探してみたらこの再発の仏盤が安くで出てた。買って聴いてみると壮麗でエネルギッシュだけど、案に相違しておれにはあんまり面白い音楽とも思えない。これはやっぱミュージカルの音楽だから、歌やダンスがあってこそのモンなのかなあなんて考えてしまう(それはたぶんオザワのせいではない)。
ところがカップリングのルッソ《ブルーズ・バンドとオーケストラのための3つの作品》を聴いてみたら断然こっちが楽しい。聴く前は「クラシック音楽のなかにブルーズとかジャズのフレイヴァーをちょっと混ぜてみました」みたいな中途ハンパな音楽じゃね? なんて失礼なことを想像してたんだけどね。ありゃま! これってストリングスとブルーズ・ハープのソロ入りビッグバンド音楽じゃないですか。いやーぜんぜん知りませんでした。これすごくいいじゃんか。
それから調べた。すると『ウィリアム・ルッソ』なる作曲家はスタン・ケントン楽団のアレンジャーとしてビル・ホールマンなんかと並んで知られたビル・ルッソのことなのだった。いやークラシックの作曲家にしちゃ大したもんだと思ったら、なーんだそうだったのか。そういやどっか「ケントン的」といえるような理屈っぽさもあるよなあ。
以来このビル・ルッソの面ばっかり聴いている。だけどこのウネリと躍動感はルッソのアレンジばかりじゃないと思う。ブルーズのバンドとサンフランシスコ響の両方を一緒にしてよく混ぜ合わせドライヴさせる、小澤征爾のこれは「腕」がすごく効いてるんじゃあるまいか。
とにかくこのレコードは買って以来、ちゃんと棚に仕舞ったことがまだない。
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それから写真の右のレコードはバルトークのピアノ協奏曲の第1番と第3番。うちにある小澤征爾のレコードCDのなかで(もっと古くから持ってる盤が何枚もあるのにもかかわらず)多分これを一番よく聴いてきた。
ピアノはピーター・ゼルキン、オーケストラはシカゴ交響楽団で第3番が1965年6月、1番が66年7月の録音。
このレコードはね、爽やかで清々しくて、とにかく若々しい。ピーターは1947年生まれというから3番の録音時はまだ18歳。小澤だって35年生まれでそのとき30歳になるかならないか。
ピーター・ゼルキンというとおれには長年、武満徹やメシアンやシューベルトの『鱒』の 'TASHI' のひとで、偉大なお父さんに反抗して長髪で挑発的な放蕩息子みたいなイメージだったんだけど、この小澤征爾とのバルトークを聴いてキラキラとして壊れそうに脆い「セイシュンの輝き」に溢れた少年時代があったのを知ってしまったんだった。
爽やかで清々しいなんてイメージがバルトークにふさわしいかどうかなんてことはこの際どうでもいい、とにかく若い音楽家ふたりが「バルトークの音楽ってこうだろ」みたいな決めつけとは遠いところで音楽を作り出そうとしてるのにグッときてね。それ以来バルトークのピアノコンチェルトといやあもっぱらこれを引っぱり出す。
ピーター・ゼルキンの音楽についてはまたそのうちということにして、とにかくピーター・ゼルキンのことを再認識するきっかけになったこのレコードは、おれにとっちゃ「一生モノ」になってしまったのだった。
たしか小澤征爾と村上春樹の対談本のなかで語られてたんじゃなかったかと思うんだけど、このセッションのとき小澤征爾はピーターを連れてシカゴのブルーズバーだかジャズクラブだかへ行ったものの、ピーターは未成年で店に入ることが出来ずに窓の外からバンドの演奏を聴いてた、みたいなエピソードがあった気がする(本がないのでウロ覚えで、間違ってるかもしれない)。小澤は父のルドルフ・ゼルキンから息子の面倒を見てくれと頼まれてたらしいが、まさか未成年お断りのバーへ連れてってほしいなんてことは頼んでなかっただろう。
ピーター・ゼルキンのHPによると小澤征爾との共演は生涯で100回以上にのぼったそうで、そういう若いころからの関係がずっと続くお互いにとって大事な音楽家だったんだろうな(2016年にベルリンフィルを振る小澤と共演したのが最後になったらしい)。
ピーター・ゼルキンは小澤よりも先の2020年2月1日、72歳で惜しくも亡くなっている。
そういや、このレコードのことが村上春樹『古くて素敵なクラシック・レコードたち』に採り上げられててびっくりしたもんだった。本の〈45番〉、その項の冒頭でこのレコードのことを「いちばんのお勧め」と書いている。そうそう、そうなんですよねムラカミ先生。
我が意を得たりってヤツである。
ジャケット裏にあるレコーディングセッション中の写真。ふたりとも若いよなあ。
Bernstein : Danses Symphoniques de "West Side Story" / Russo : Trois Pièces pour Blues Band et Orchestre(2530 309 Gravure universelle)LP 仏盤
Bartók : Piano Concertos Nos.1&3(RCA Victor LSC-2929)LP 米盤
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この2か月で読んだ本の備忘録 怒濤の最終回(なんちて)
http://sgodzi.exblog.jp/29857231/
2024-02-11T23:47:00+09:00
2024-02-12T09:03:09+09:00
2024-02-08T15:36:14+09:00
god-zi-lla
本はココロのゴハンかも
ちかごろ寒さが身に染みるのはトシのせいだな、きっと。
左から。
大江戸旗本 春夏秋冬 戸森麻衣子(東京堂出版)出久根達郎の古本屋小説集 出久根達郎(ちくま文庫)新編 日本の面影 II ラフカディオ・ハーン/池田雅之・訳(角川ソフィア文庫)土を喰らう日々 わが精進十二ヵ月 水上勉(新潮文庫)唐獅子株式会社 小林信彦(フリースタイル)凍った脳みそ 後藤正文(ミシマ社)よみがえる天才3 モーツァルト 岡田暁生(ちくまプリマー新書)澤野工房物語 下駄屋が始めたジャズ・レーベル、大阪・新世界から世界へ 澤野由明(ディスクユニオン)貧乏ピッツァ ヤマザキマリ(新潮選書)集団に流されず個人として生きるには 森達也(ちくまプリマー新書)
手前のやつ。
掬われる声、語られる芸 小沢昭一と『日本の放浪芸』 鈴木聖子(春秋社)
大江戸旗本は書評で面白そうだったので図書館で借りて読んだらこれが滅法界に面白いんだ。それから、例として採り上げられてる大身旗本のひとつ『金井さん』のお屋敷がウチの近所だったっていうから思わず探しに行ったりなんかしたりして。
で、あんまり面白いもんだからもっとじっくり読みたくなって、図書館に返してあらためて購入。
知行持ちの大身旗本のなかには江戸も末期になると、主人家臣揃いも揃ってデクノボーゆえマトモな領地経営ができず、あろうことか税を納める側の領民が、領主である旗本んちの家計を管理してたなんてケースすらあったっていうんだ。いやまったくなんというかもう。
お大名家の「お家騒動」がどうして起こるのかなんてことも、この本に出てくる旗本の家のケースを読んでみれば、そういうことだったのかと腑に落ちる。ようするに家族親類家来含めた「家」の存続が最優先で、ばやいによったらトノサマ個人の意見が家来の総意によって退けられることもままあったんだと。だから嫡男以外が家督を相続したなんてケースは珍しくもなんともなかったらしい。
出久根達郎の本領ともいうべき古本屋を題材にした短篇小説のアンソロジーって、あるようでなかったんだな。これが面白くないわけがありません。
小泉八雲が古いニッポンのよきモノやコトについて熱心に書き残したのは、つまるところそれらがいずれ遠からず消えてなくなるものであると確信してたからなんだな。で、ここに書き残されたモノやコトの大半は実際に消えてなくなっている。
あーもう、クワイを火の熾った七輪にモチ網乗せて皮ついたまま焼いただけで、なんでこんなに美味そうなんだと悶え苦しみつつ読む。ほぼすべて、水上勉が禅寺の小坊主時代に仕込まれた台所仕事の応用で、一見質素に思えるけど極めて贅沢。
水上勉の作品は『飢餓海峡』と『五番町夕霧楼』しか読んだことなかったんだけど、これはこの本を原案にしたジュリー主演の映画を見たあとで読んだ奥さんが、しきりに感激するもんだから気になって読んでみた。
たまらんなあ。
それにしても "ダーク荒巻" の名前を見た瞬間一気に思い出して惹き込まれるとは思いもよりませんでしたね。二段組みの本文が540頁。唐獅子シリーズをこれだけまとめて読んだことなんか勿論なかった。いやー最高にして軽佻浮薄。あはは、こんなとこにこんなこと書いてたのかぁ、ヤダなあ。みたいなところが改めて読んでみると多かったりする。
けどさ。あの時代の世相、ハヤリ物、サブカル的ないろいろをリアルタイムで知らない「後世のひとびと」および、そういうモロモロに当時も興味のなかった(あるいは軽蔑してた)重厚長大系の「同時代人」には、ひょっとしてどこが面白いのか全然わからないんじゃあるまいか。
でもこんなものを書ける「ひと」も「時代」も、金輪際出てこないのだけは間違いない。
後藤正文は過剰に過剰で饒舌だなあ、この過剰な過剰さはどっか町田康と通じるモンがあるわなあと読後思ってフラヌール書店で掛けてくれた紙のカヴァーを外してオビの惹句を読んだらその町田康じゃんか(ホントに気づいてなかったの)。
曰く
「そんなことは業者に任せ、その時間で音楽を作ってくれ」この本を読んだファンはそう思うであろう。しかし心配は無用。この迂回、屈曲こそが音楽の、いやそれのみならず文学の、いやそれのみならず人生の本然なのである。
"そんなこと" ってのはプライヴェートスタジオ作りのことで、これはそのスタジオ作りの顛末記なり。
モーツァルトと澤野工房と、小沢昭一のことは、あらためて後日。
ちくまプリマー新書の森達也、本文最後のところを箇条書きで抜き出す。
○負の歴史を見つめよ。○メディアリテラシーを身につけろ。○世界は多面的で多層的で多重的だと知れ。○集団に帰属しながらも、しっかりと一人称単数の主語を持つこと。
この本は10代のひとたち向けに書かれたのかもしれないが、ほんとに読まにゃいかんのはおれらオトナである。
それから、図書館で借りて読んで返しちゃった本が2冊。
言語オタクが友だちに700日間かけて引きずり込んだ言語沼 水野太貴・堀元見(あさ出版)
南海トラフ地震の真実 小沢慧一(東京新聞)
「えーっと」と「あのー」は(そういうのを『フィラー』っていうんだってね)、同じようでいて無意識のうちに使い分けられてるんだなんて読むまで全然知らなかった。つか、そんなことフツー考えもしない。
なるほど。言語学ってのはそういうことをやってんのか。
《ゆる言語学ラジオ》つうポッドキャスト番組を息子から教わって聞いたらこれが結構おもしろい。面白いんだがジジイは若者の早口がところどころ聞き取れなかったりする。この本は番組の再録ではないらしいが、番組をやってる二人のやりとりが脱線につぐ脱線の番組そのまんまな感じに近くて、そこんとこがまあ、なんだかなーと思うか、だから面白いと思うかってのはある。
南海トラフ地震の本は能登の地震があったから読んだのでなく、去年のたしか秋くらいに書評で知ってすぐに図書館に予約したら27番目だかで、ようやっと順番が巡ってきたと思ったらこんなことになった。
その『南海トラフ地震』が今後30年で起こる確率が70%なんてハナシが出てからこっち、ぜんぜん予想もしてなかったところで一体全体いくつの大地震が発生して、肝心の南海トラフでいっこうに地震が起きないのはナゼか。
まあ東京新聞の続き物記事のマトメだからすでに知ってるひとは多いのでしょうが、ようするにもはや「地震予知学」などというものはサイエンスでもなんでもなく、30年というスパンも「なんとなく人生30年」みたいなことで30年と言ってるだけで当然サイエンスなどではなく、70%の確率にしても根拠となるどこやらの港の海底の隆起の「データ」が、江戸時代の港の役人が竹竿かなんか突っ込んで測ったもので、しかも地震なんか当然関係なく船の出入りに必要な深度があるかどうかを見張ってた記録で、そのうえ途中で海底を浚渫してるので海底の隆起状況なんてわかるわけないんだと。
よーするに一切合切がマヤカシで、学者はみんなそんなこと先刻承知だけど、いまさらあれはマヤカシでしたでは国民の防災意識に水を差すかもしれないから黙ってる役人と、防災に役立つ研究をしてると言えば予算も引っ張れるし大きな顔できるからホントのこと知られたくない御用学者の既得権益のためなんだっていうんだ。
だけど逆に(こちらのほうが問題なのは)「南海トラフ地震」だけが突出して高い確率で出てるもんだから他の地域の確率は相対的に低くなり、熊本県などは大地震が発生する確率が「低い」ことをウリにして企業誘致をしてたというんだ。そしたらそこにあの大地震だぜ。
こんどの能登の地震の思った以上に甚大な被害にも、ひょっとしたら関係あるかもしれない。
以上。
生活習慣が変わったこともあり、ここんとこ図書館から借りる本が増えてることもあり、2か月貯めて本のことメモするのに(写真撮るのも)ムリが出てきた。読んだ本の備忘データは個人的に必要なので記録はしよう。とにかく『2か月』ってのは今回でおしまいにする。2005年の9月が最初だから18年? よく続けたもんだ。
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ここんとこの日々は好日なりや(どうだかね)
http://sgodzi.exblog.jp/29844748/
2024-02-04T08:42:00+09:00
2024-02-06T13:51:20+09:00
2024-02-03T12:58:53+09:00
god-zi-lla
日日是好日?
某日、日比谷ミッドタウン前庭。
初代ゴジラ封切りから70年なんだってね。
なんでゴジラが露天風呂に浸かってんのかと思ったらガレキからケムリなんでした。近寄ってみるとケムリだけじゃなくサウンドも付いてて当然それは伊福部昭のテーマ曲なり。
それにしてもパッと見、大船の観音さまを思い出しちまって。
最新作《ゴジラ -1.0》は去年の11月、このゴジラ背後のミッドタウン日比谷3階のTOHOで見た。
この日は《カラオケ行こ!》を東京宝塚劇場地下のTOHOで。オトナっぽい中坊たちとオトナ気ないヤー公どものほのぼの笑える映画なのだった。綾野剛の若頭補佐もいいけど、齋藤潤くんの合唱部長がとってもヨロし。
某日、五反田にある東京卸売センター(いわゆる『ティーオーシー』ね)が建て替えのため取り壊しになるっていうんで、その1階にあるABCマートのアウトレットの閉店セールに行った。なにしろアウトレットの閉店セールだかんね。安物のスニーカーをさらに半値以下で叩き売ってるのを掴んでレジ。
行きは出先の新橋から都営地下鉄浅草線に乗って五反田駅下車して歩いたが、帰りは不動前駅から東急目黒線で帰ろうとてくてく歩いたのだった。すると攻玉社高校の近く(不動前駅も近い)に小さな本屋さんを発見。はて?
入ってみるとこれがなかなかの本屋さんでね。『フラヌール書店』といって開店1年くらいらしい。20坪あるかないかくらいの店(写真に見えてるのが店内のほぼすべて)に小一時間くらい居座ってしまった。品揃えの中心は人文系、ゲージツ系、ブンガク系、児童書その他。
ハヤリ物・ブロックバスター本・ヘイト本なぞはメガ書店とアマゾンにオマカセしますという新刊書店。
こういう本屋さんが、こぐわずかずつではあるけど新しく出来てきている。うれしい。また来ようフラヌール書店。
某日、梅が咲いている。寒くても春は近い、と思いたい。
神田明神の拝殿をぐるっと脇へ回って銭形平次の碑のある側のすみっこのほう。拝殿は1月もおしまいだってのにまだ初詣の行列でびっくりだけど、梅の花に気づいてるひとはあんまり(つか、ほとんど)いない。
そうそう。平次の碑のとなりには小さな『八五郎』の碑もあったんだな。いままで気づかなかった。
その、行列の拝殿。
このあと湯島のスタジオでオーディオの会。
某日(ったって1月17日ってチラシに書いてあらぁ)いつもの駒込で立川笑二の落語会。
『蜘蛛駕籠』『仲順大主』『抜け雀』の三席。仲順大主は笑二の作。このひと沖縄出身で地元で独演会開いたときに席亭から地元ネタの噺を望まれて初めて作った自作なんだと。仲順大主(ちゅんじゅんうふしゅ)というのは沖縄では知られた古い伝承ということで、それを江戸(らしい)の商家に持ってきた噺。
もうちっとこの若手二つ目らしい「毒」や「気色悪さ」が効いててもよかったかな。
この夜の三席がいつもよりマトモで『毒』少なめなのは寒さのせいか客の少ないせいか、やや歯ごたえに欠ける。面白くないわけじゃないんだけどね。それだけ期待値の水準が高いってことなのよ。
某日、学生時代の仲間20人が日本橋のとある横丁の店に夕方集まって新年会。上は推定70歳、下は推定60歳。店の経営者夫妻も仲間。よく頑張ってるなあ。
午後6時過ぎお開き。帰り道、日本橋髙島屋デパ地下で値下げ特売のお弁当買って帰宅後お夜食。
来年も同じメンツで集まれるといいね、なんて言い合うトシになっちゃった。
某日、買い物途中、ウチの近所のお寺にある聖観音立像の足元をふと見れば、御影石の花台の上には赤いボディに白いルーフの "ミニ" のミニカーが1台。
なんか、いいよな。
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30年前に買ったボロ盤について書いた17年前のエントリーにコメントもらった
http://sgodzi.exblog.jp/29817824/
2024-01-20T23:56:00+09:00
2024-01-22T07:43:42+09:00
2024-01-16T09:13:57+09:00
god-zi-lla
常用レコード絵日記
watiさんからこのエントリーにコメントが付いた。2005年12月にアップしたギル・エヴァンスの初リーダー作《GIL EVANS & TEN》と、中身はまったく同じの再発改題盤《BIG STUFF》のことを書いたエントリーじゃないか。17年も前の、ずいぶん古い記事にどうして今頃また。
watiさんは古いオーディオ仲間で、このブログにも昔から何度もコメントをもらってる。ご自宅に大勢で押しかけてキュートな英国系ワンブランドシステムを聴かせていただいたこともある(その節はありがとうございました)。
で、watiさんによれば、その2005年のエントリーにある《GIL EVANS & TEN》のステレオヴァージョンが発掘され、それがSACDハイブリッド盤でリリースされており、これがぶっ飛ぶような音だってのを知ってますか、と。
《GIL EVANS & TEN》といやあプレスティッジ・レーベル1957年録音のアルバムで、録音からカッティングまでルディ・ヴァン・ゲルダーがやっている。もちろん当時モノラル盤しかリリースされてない。ううむ、そんなものがあったのか。
するとwatiさんが親切にもステレオヴァージョンのファイルをクラウドに上げてくれたので、さっそく聴いてみたのだったが、なるほどこりゃステレオ録音だ(プレスティッジが再発時によくやる『擬似ステ』ではない)。しかもたしかにいい音だ。いや、たしかにどころか、かなりいい。古さを感じさせない、しかもあの初期ヴァン・ゲルダーのステレオ録音の、左右のスピーカーに音楽が泣き別れて不自然な「マルチモノ」感をほとんど感じない。んー。
このアルバムはジャズ批評社刊『決定版プレスティッジ・ブック』によると1957年の9月27日と10月10日の二日で録音されている。ちなみにヴァン・ゲルダーがステレオ録音を始めたのはあの名高いニュージャージー州イングルウッドクリフスのヴァン・ゲルダー・ステュディオを建てる少し前、同州ハッケンサックの自宅リビングルームで録音してた最後のころだったっていう(レコード・コレクターズ誌2011年11月号掲載の本人へのインタビュー)。つまり57年の秋にはすでに2トラックのテープレコーダーを回してたってことだな。
でもね。ヴァン・ゲルダーはおなじインタビューのなかで、当初はステレオでも録音してたもののモニタースピーカーは1本だけで、だれひとりステレオの音を聴いてなかったって発言してるんだよ。
つまりこのアルバムのステレオヴァージョンが、マルチモノ的じゃなくてわりかし自然な感じに録れてるのはほとんど偶然だったってこと? たまたまギル・エヴァンス含め11人のスモール・オーケストラのサウンドがイイ感じになった? さすが名手ヴァン・ゲルダーと言うべきか。それにしてもこの鮮度。こりゃ発掘されたステレオヴァージョンのマスターテープの保存状態がすごく良かった?
いやそんなわけないか。当時ステレオ盤発売されてないんだから当然ステレオ用のマスターなんて作ってないはずだ。するとヴァン・ゲルダーのリビングルームでミキシングコンソールに繋がってた2トラックのオリジナルテープがミント状態で保存されてて、21世紀になって発見されたそいつから新規にステレオマスターを作ったってことなんだろか。
調べてみると、そのSACDはどうもこれらしいんだけど、もう20年も前に出たものでとうに廃盤だ。こういう廃盤SACDは中古で探すと大抵かなりの高値がついてる。ま、ウチにはすでにSACDをかけられるプレーヤーがないから高かろうが安かろうがカンケーないんだけど。それはともかく、いい機会だから冒頭の写真の再発改題LP《BIG STUFF》を引っぱり出してステレオヴァージョンのデジタルデータと聴き比べてみたんでした。
あらためて比べてみれば左右の「広がり感」は当たり前だけど断然デジタルのFLACデータがすごい。ノイズ感もなくてクリアだし。だけどなぜか、というか、「やっぱり」というか、モノ盤のLPのほうにはモノラル盤どくとくの奥行き感があるんだ。ステレオのFLACデータからはそれがあまり感じられない。ひょっとするとステレオの「広がり感」に耳を奪われて、そっちに注意がいかないだけかもしれないと思わないでもないんだが、ようするにおれはこのモノラルLPの音が好きだってことなんだろうな。
ところで、この《BIG STUFF》のLPを買った30年くらい前、おれはギル・エヴァンス初期のあの木管楽器やホルンを使って霞たなびくようなアレンジを施してた時代の音楽をあんまり好んでなかった。なのでこのアルバムを買ったものの耳を傾けてるのはスティーヴ・レイシーのソロの部分だったりしたもんだ。
それがトシを取るにつれギルのフォギーな雰囲気の音楽も悪くないなと思うようになってきて、そうするとこのアルバムで聴けるジミー・クリーヴランドの穏やかなトロンボーンソロが結構ココロに染み入るようになってきてね。あーこれはとても良いアルバムだったんだなあなんて、ずいぶん後になって再認識したりしたんでした。
watiさん、ありがとう。
(写真クリックすると少し拡大されて左側に'RVG'刻印が見える)
*Prestige / New Jazz NJLP8215(LP MONO)
2005年のエントリーにある国内盤《GIL EVANS & TEN》は2年くらい前にユニオンに売っちゃった。もともとハンターで買った中古だったけどね。
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2024年が始まった
http://sgodzi.exblog.jp/29806394/
2024-01-04T22:30:00+09:00
2024-01-05T08:58:19+09:00
2024-01-04T09:27:50+09:00
god-zi-lla
日日是好日?
つねづね年賀状のやりとりをしている方々には喪中欠礼状を送ったのでご存じと思うが、昨年12月はじめにおれの父親が97歳で亡くなった。
葬式も終わってヤレヤレ今年はいろいろシンドイことがあったねえなんて奥さんと話してたら、暮れも押し詰まりに詰まったドン詰まりのちょい手前の30日、その亡くなった父の一番下の弟にあたる叔父が90歳で亡くなったという知らせ。
そもそも去年10月には、3歳上の従姉が海外で事故死したと知らせを受け落ち込んだばかりだった。ああ、2023年は個人的にはあんまりいい年とはいえなかったなあ。そういや去年の今日、おれは病院から病院へ救急車で搬送されてたんだ。ひとの生き死にに比べりゃまるで些細なことではあるけども。
せめて2024年、自分らの周辺はもう少し平穏であって欲しいモンだと思ってたら、こんだはヨノナカがこれだ。
2日に近所のお宮さんへ初詣したんだが、まずは能登半島で被災した人たちの無事と亡くなった方々の冥福を祈ることになった(海保のひとたちが5人も亡くなったというのは後で知った)。
この小さなお宮さんはなかなかの由緒だが参拝客はそれほどなく、拝殿でお賽銭をあげて手を合わすと、すぐ脇に神主さんがいて御幣をシャッシャッとやってお祓いしてくださるのが有り難いことである。
それにしてもこんな正月だ。自宅に引きこもって暮らそうとすると、どうも気分が塞いでならない。しかしどこへ出かけても人、人、人で楽しめない。そうだ3日は席があったら芝居見物に行ってみよう。今月歌舞伎座は「昼の部」の切符しか取ってないから夜の部の『寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)』の幕見席はどうかと見れば、お誂え向きに空席があるじゃないか。
正月の芝居といやあ「曽我物」か「三番叟」だもんな。そして歌舞伎座。
まあいるよね、こういうひと。
すでに「夜の部」開演しているから正面に人の波はない。『寿曽我対面』は夜の部の二つ目の演目なり。
正面玄関の横手の陰になったところに幕見席の入り口がひっそりとあって、いきなりエレベーターで4階へ送り込まれる。
4階の幕見席から舞台を見下ろす。甲子園でいやあアルプススタンドみたいなもんだ。1〜3階席とは往き来できない隔絶された世界。外国人観光客と日本人観光客と歌舞伎好きが混ざって芝居見物する。着飾ったオバサマなどはいない。弁当も食えないし売店もないし、飲料の自販機もない。
あーやっぱり、来てよかった。一般席の華やぎより今日の気分はここが似合ってる。
*オマケ
あ、スカイツリーが見える、と奥さんが指さした。
昭和通りを跨ぐ歩道橋の上。
何度となく通ってる歩道橋なのに、ここからスカイツリーが望めることに初めて気づいた。眼下の道路が昭和通りで、歌舞伎座最寄りの三原橋交差点をくぐるアンダーパスを見下ろす場所。このあたり、昭和通りの両側一帯がむかし『木挽町』と呼ばれた江戸の「芝居町」のひとつ。
2024年の残る日々、どうか皆さまご無事で。
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年の瀬に年甲斐もなくお年玉もらった気分(CHO CO PA CHO CO QUIN QUIN / TRADITION)
http://sgodzi.exblog.jp/29798280/
2023-12-25T00:40:00+09:00
2023-12-25T07:36:13+09:00
2023-12-24T14:01:31+09:00
god-zi-lla
常用レコード絵日記
なんとはなしにApple Musicの〈オルタナ〉系のプレイリストを再生したら、' CHO CO PA CHO CO QUIN QUIN ' って日本の若者3人のバンドの《ワタツミ》って曲がかかって、いきなりハマった。なんなんだこの心地よさというものは。そもそもバンドの名前なんて読めばいいんだ。"チョコ パ チョコ クイン クイン" でいいんですか?
いやーこれいいわ。ひさびさ、おれのストライクゾーンど真ん中を突かれました。
あらためてオリジナルのアルバム全曲聴いてみたんだが、どの曲も全部いい。アルバムタイトルは《tradition》、今年の夏リリースされたらしい。エレクトロニクスとパーカッションとラテン(キューバとかブラジルとか)とニッポンがゆったり溶け合いつつスピード感もあり、どっか育ちのいいような雰囲気を湛えながらも一筋縄ではいかない音楽。
なんの説明にもなってなくてすみません。
で、「アルバム」といってもApple Musicで聴いてるだけで、調べてみたらCDもレコードも出てない。まったくイマドキであることよ(レコードCDは来年リリースされるみたいだな)。
メンバー3人は小学校のときに初めてバンド組んだというんだ。なんか『ホイチョイ』みたいなヤツらだ。まさかその頃からこんな音楽やってたわけないと思うけど、さっきネット見てたら3人のうちのひとりが細野晴臣の孫だっていう。
んー、そういや腑に落ちるところはある(ホソノさんの年齢ならオトナの孫いるよなー、ということじゃなくってね)。
だけどそんなこと抜きで、いや久しぶりにハマっちゃったよ。
ヘビロテ中。
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Lost and Found 〜 新宿の「摩天楼」は43年前
http://sgodzi.exblog.jp/29774511/
2023-12-18T10:56:00+09:00
2023-12-18T11:04:10+09:00
2023-12-10T07:21:51+09:00
god-zi-lla
常用レコード絵日記
というわけで、いろいろあった12月である。まだ半分近く残ってるけど、なんかもう「マトメ」に入りたい気分なのさ。
いやその前に、本線それて枝線に入ったきり戻れなくなった前回の続きだ。
益田幹夫は「新宿副都心」を背に笑っているんである。なにしろニッポンに初めて出現した「超高層ビル群」だったんだからねえ。当時このアングルはどこにもない最先端のさらに尖端の思いっきりトンがった「風景」なのだった。これは益田幹夫の《シルヴァー・シャドウ》ってアルバムである。
ライナーノーツに80年5月と6月の録音とあるから、その年か81年リリースだったんだと思う。そうするとジャケットの写真は1980年。43年前の、薄暗い空に「摩天楼」の先がちょっと霞んでるからおそらく梅雨の時分だな。
ミゾに刻まれてるのはもちろん当時〈クロスオーバー〉と呼ばれた、もう少し経てば〈フュージョン〉と呼ばれるようになる音楽である。まあ4ビートの「モダンジャズ」命というような向きには当時もいまも、ケッ、てなもんでしょうけど、おれは好きだね今もあのころも。
益田幹夫はずいぶん前にもブログに書いたと思うんだが、もう半世紀近く愛聴してきたのが《MICKYE 'S MOUTH》という76年リリースのアルバムなのだった。なんつうか、若々しく跳ねるような、だけど音と音の間がけっこうスカスカしてて、よく言えば風通し良く、見方によっちゃ不完全で未完成で大ざっぱでもある。だけど音楽するのがうれしくてうれしくて仕方ないって気分の溢れてる、初々しいアルバムでね。
その後、このアルバムが売れたのかどうかは知らないけども、益田幹夫は渡辺貞夫のバンドで活躍するなど一躍注目の若手キーボーディストになって、デイヴィッド・マシューズだのマイケル・ブレッカーだのの名前が麗々しく踊るゴーカな合衆国録音のアルバムをリリースしたんだよ。
益田幹夫、大したモンだなあって思いながらそんなアルバムを2枚続けて買って聴いたんだけど、これがどっちもガッカリでさ。そりゃあ腕利きのアレンジャーとミュージシャンが揃ってんだから完成度の高い、いかにも洗練されて緻密な「クロスオーバー・ミュージック」だったんだけど、なんつうかな。
ニッポンからのお客サンのために一丁アガリでアルバム1枚仕上げたぜ、みたいな「お仕事」にきこえる。一体全体、益田幹夫はどこにいるんだ。おれはこういう音楽が聴きたいわけじゃない。
ここんとこ300枚ほどのレコードを処分したわけだけど、それでもズルズルそのまま棚にあったそのUSA録音の益田幹夫のアルバム2枚も、とうとう300枚のなかに混ぜて棚から姿を消した。これでおれんちにある益田幹夫のアルバムはその《MICKYE 'S MOUTH》だけになった。
ハズだった。
そしたら、この《SILVER SHADOW》が棚からコツゼンと現れた。しかもどういう音楽だったか全然覚えてないんだ。
レーベルがキングレコード系のELECTRIC BIRDで、処分したUS録音のガッカリ盤と同じだ。愛聴する《MICKYE 'S MOUTH》はフォノグラム系のEAST WIND。んー。これは次回処分組かもな。だけどいっぺん聴いてからにしよう。
なんて期待ほぼゼロで針を降ろしたら、これがいいんだ。《MICKYE 'S MOUTH》みたいな初々しさはないけど、やりたい音楽をやってるという躍動感がまちがいなくある。USA録音盤の洗練も少しだけあるけど、それがうまく溶け込んで益田幹夫の個性を塗り潰すようなことがない。
メンバーをみると大野俊三tp、本多俊之as,fl、加藤崇之g、河上修bほかでキングレコードのスタジオで録音されてる。「本場」路線をヤメて気心知れたメンツとやり直すことにしたんだな。いやーこれはいいよ。これは売らない。残す。決まり。
それにしてもどうしてなんだ。これ聴いて覚えてないというのが信じられない。間違いなくウチのレコード棚に40年潜んでたはずなのにさ。アンタは横井さんか小野田さんか。
で、ふと気づいたんだけど、これってオビが付いたままだ。おれはこの以前からずっと国内盤の新品を買ったらすぐにオビを捨ててたんだよな。オビを捨てなくなったのって「オビ付き」のほうが売るとき高値が付くと知ってからだから(ナサケない)、そんな古いことじゃない。
ひょっとしてひょっとすると、おれが買ったんじゃないのかこのレコード。
奥さんに聞いたら、あ、その益田幹夫はわたしが買ったんだよ。あの頃何回か益田幹夫のライヴに行って気に入ってたからねって、わりかし簡単に言うのだった。あ、そうなの。
あーよかった。ひとのレコード勝手に売り飛ばすとこだった。
しかも、こんなにいいアルバムを。
*益田幹夫/SILVER SHADOW(ELCTRIC BIRD K28P-6032)LP
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と、ここまで書いて、ふとネットで益田幹夫を検索してみると、すでに亡くなっているらしい。「らしい」としか書けないのは、ちゃんとした訃報が検索でひとつもヒットしないからで、それが今年なのか去年なのかすらも判らない。
長い間難病で闘病中だというのは知っていたが、それが原因なのかどうかも判らない。もしかしたらネットが「殺した」だけで生きているかもしれない。そうであって欲しいと思う。
それにしてもだ。ここまで忘れられた音楽家なのか、益田幹夫。
おれが益田幹夫を初めてライヴで見たのは、大学の学園祭に当時の渡辺貞夫グループがやってきて、そのキーボードが益田だった。溌剌として弾むような演奏で、当時のナベサダグループのブラジル&アフリカ指向のサウンドを見事にドライブしてた。
益田幹夫。1947年大阪府生まれ。存命なら74歳。
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Where 's Mom ? あるいは断水高崎小旅行
http://sgodzi.exblog.jp/29781643/
2023-12-16T11:54:00+09:00
2023-12-16T15:57:21+09:00
2023-12-15T00:48:30+09:00
god-zi-lla
物見遊山十把一絡げ
自宅マンションの給水ポンプ交換のため、まる1日断水するっていうんだ。そりゃタイヘン。ウチにいたらトイレにも入れない。どっか外へ避難するしかないな。だったらちょっと遠くまで足を伸ばそうかしらん。
つうわけで新幹線に乗って高崎。
とりあえず建物なんか見に行こうかなって。
しかし、
駅の外に出ると、いきなりワラの仔牛が「ママはどこ?」
どしたの?
だけどゴメンよ、われわれはキミのママ探しに付き合ってる時間がないんだ。
夜になるとイルミネーションが輝くらしいんだけど、わしらは日のあるうちに帰るからね。
そして駅からてくてくと歩き始めた。
小さな「諏訪神社」
神社というか「祠」。
しかし小さいのに建物もなんかすごい。祠自体がやけに立派だし、祠と一体化(!)した鳥居には見事な彫刻の昇り竜下り竜。建物本体にはコウモリのような彫刻もある。
横に回って見上げたところ。なにかの物語になってるらしいが、教養がないのでわからない。
目当ての「建物」とは全然関係ないけど、すごくいいものを見せてもらった感じがしますね。
しかし小さいとはいえ、こんなに見事なお宮さんが由緒正しくないわけがないと思ったら傍らに案内板があった。なるほど。内容は市役所のサイトのコレとほぼ同じ。
さて先を急ごう。
めあての建物その1、のはずなんだけど、これでよかったんだっけ?
音楽ホールですよね。もしかしてこれは通用口とか楽屋口とかそういう感じですかね。
さっきチェロのケースを抱えた人が入っていったしな。
向こうへ回ってみる。
ナミナミの塀。
タダモノでない感を発散してる。
これが目当ての建物のひとつなのだった。アントニン・レーモンド設計の『群馬音楽センター』。
1961年竣工っていうと東京文化会館と同じ年か。文化会館の設計者・前川國男はレーモンドの教え子でもあるそうだ。
ぐるっと建物を眺めながらまわりをめぐってきたのに全体がどーなってんのかイマイチよくわかんなかったが、帰ってからウィキペディアにある空撮写真を見てようやく納得した。「教え子」の作品のほうが保守的に見えるのは、それが個性なのか建物の「仕様」によるものなのかシロートのおれなんかには全然わからない。
でもこのギザギザ幾何学的外観とガラスのファサードは、まわりにちょっとやそっとの新しい建物が出現してもへっちゃらだな。
だけど、中も見たかったなあ。覗くと壁画とかも見えてるし。
音楽センター車寄せのすぐ向かいにある電話ボックス。いいねえ、こういう取って付けたような感じ。
向こうに見えるのは高崎城の『乾櫓』。
さて。駅まで戻って昼メシを食ったら「最終目的地」へ行こう。
さあ、横川の釜飯を食って腹もくちくなったところで、駅から歩いて5分の最終目的地、高崎市美術館なり。
ちょうど竹久夢二の企画展をやってたところだったけど、わたしらの目的はそれじゃなくって敷地内にある『旧井上房一郎邸』なのだった。
これはアントニン・レーモンドのかつて麻布笄町にあった私邸を、レーモンドと交友のあった井上房一郎が本人の許可を得て、一部改変を加えたうえで高崎に「複製」したんだそうだ。
思ってたよりずっと質素な佇まいで驚く。まだ物資潤沢でない戦後復興期の1951年の建築だかららしいね。
だけど、かえってそれがオサレだ。
格好いいなあ。家具調度品も井上房一郎自身が選んだんだそうだ。
見上げると明かり取りの窓には障子が。射し込む光が柔らかい。天井板は張らず変わった梁で屋根を支えてる。
いやー、こういう家を建ててみたいと思うだけなら自由なんだけど。
ストーブ。
奥に見える額は湯川秀樹の揮毫だった。
床も低いし、随所に和風のところがあるとはいえ、これは基本的には西洋建築なんだろうな。でもその「折衷」の仕方がもうセンスとしか言えない感じ。
こっちは小さなパティオに挟まれた反対側の、もともとはプライヴェートスペースの「居間」だったらしい。
もとのレーモンド邸にはなかったという和室。畳を見ると「炉」が切ってあるようだから茶室としても使ってたんだろう。
でもなんか、ぴっと背筋の伸びそうな緊張感のある部屋だな。
見学入り口になっているパティオ部分の壁面。
室内の壁は当たり前の合板貼りのように見えるし、ここはパティオを囲う壁面だけどここも質素な素材に見える。これは松?
いやまったく、良いものを見せてもらえました。
この『旧井上房一郎邸』がどんなものであるかは、ネットで検索すると名だたる建築設計事務所から建築好きのマニア、建築学者、観光客、ハウスメーカーなど山ほどのサイトで紹介されてるので、おれがとやかく書くようなもんじゃありません。なのでひとつだけここにリンクを貼っておくことにする。
あ、これってもしかして、あの仔牛のママ?
あら、あなたウチの坊やがどこにいるか知ってるの?
だったら連れてきてくれればいいじゃない。
まったく、ニンゲンというのは気の利かない動物なんだから。
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この牛のママさんのところに、なんの案内表示もなかったから帰って調べてみた。なんでも、《アートプロジェクト高崎》つう現代アートのイベントの参加作品らしくって、これは地元の作家・松本勇馬さんの作品とのこと。
なんだよー。そんなイベントやってんだったら、ちゃんとした案内でもあれば見て回ったのにさ。
でもこの牛は親子揃って、かわいい。
さて、帰るか。
行きも帰りも新幹線はほぼ満席。
ミヤゲは「おっきりこみ」。
その晩さっそく煮込みうどんこさえて美味しくいただきましたとさ。
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この2か月で読んだ本の備忘録
http://sgodzi.exblog.jp/29761140/
2023-12-08T09:01:00+09:00
2023-12-08T09:26:22+09:00
2023-12-06T14:27:34+09:00
god-zi-lla
本はココロのゴハンかも
師走だなあ。
立ってるほう、左から。
昔日の客 関口良雄(夏葉社)
伝説の編集者 坂本一亀とその時台 田邊園子(河出文庫)
スウィング・ジャパン 日系米軍兵ジミー・アラキと占領の記憶 秋尾沙戸子(新潮社)
ギケイキ2 町田康(河出文庫)
定価のない本 門井慶喜(創元推理文庫)
客観性の落とし穴 村上靖彦(ちくまプリマー新書)
音声学者、娘とことばの不思議に飛び込む 川原繁人(朝日出版社)
その昔、ハリウッドで クエンティン・タランティーノ/田口俊樹・訳(文藝春秋)
寝てるほう、左から。
何もそこまで ナンシー関(角川文庫)
秘境ブータン 中尾佐助(岩波現代文庫)
ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 望月優大(講談社現代新書)
アメリカの鱒釣り リチャード・ブローティガン/藤本和子・訳(新潮文庫)
夏葉社の本は装丁が楽しいのが多くてつい手が出る。布張りの表紙にカバーなしで帯のみ。32年ぶりの名著復刊だそうだけど、初めで知った。大森の古書店主の随筆集。もとの本には木版画の口絵が1丁入ってたらしいが、さすがにそれはムリだったみたい。だけどこれを一般流通本として復刊する夏葉社はたいしたもんだ。
しかもおれが買ったのは初版から12年がかりの12刷り! 本好きがそれだけいるんだねえ。
坂本龍一の父が文芸書の編集者だったのはなんとなく知ってたけど、これほどの業績があって、これほど激しいひとだったとは知らなかった。著者は河出書房でもと部下。龍一が父の評伝を書いてと著者に望んだそうだけど、書きぶりに(もと部下として上司にたいする)愛憎半ばするのが見えるとこをどう読んだんだろうな。もとよりべんちゃらだらけの「評伝」なんて望んでなかったでしょうけども。
油井正一か瀬川昌久の本に出てきた名前がジミー・アラキで、どんなひとだったのかとこの本を見つけた。古本をAmazon。日系人収容所で青春期を過ごした二世。GHQの語学兵として来日して日本人ジャズメンにビバップを伝え、後年中世日本文学研究者に転じてハワイ大学教授。どういう人生なんだこれは。
日系人収容所の生活というと『マンザナ』のことがわりかし知られてるけども、それが収容所生活の典型じゃなかったんだといのも初めて知った。
それにしても一種「万能の天才」って感じのひとだったんだな。
ギケイキは《3》の単行本が出たんだねえ。早く文庫になんないかな。いやもう町田康、すごいよ。
敗戦直後の神保町の古書店街とGHQの「戦い」をめぐるミステリーだって読書会で聞いたので読んだ。後半ちょっと調子良すぎないかよと思うけど、ま、いいか。今回、「古書店」の本が2冊、「GHQ」の本も2冊。べつにいいんだけど。
次の本から以下、ちょっと長い引用。
一人ひとりの個別の経験は、客観的学問にとっては切り捨てられるべきものとみなされた。一人ひとりの偶然的でうつろいやすい多様な経験は、まさにそのようなうつろいやすさゆえに科学において価値を失った。ところが、うつろいやすさや、偶然、個別性のなかにこそ、経験の重さが宿る。客観的な学問によって多くの有益な知が得られるが、だからといって自分の経験の個別性を切り崩す必要はない。
数字による束縛から脱出する道筋を本書は探してきたが、それは数字や客観性を捨てるということではない。繰り返すが、問題は、客観性だけを真理として信仰するときに、経験の価値が切り詰められること、さらには経験を数字へとすり替えたときに生の大事な要素である偶然性やダイナミズムが失われてしまうことだ。「客体化と数値化だけが真理の場ではない」ことを理解する方法が問われている。
本文134-135頁。下線部分は本文では傍点。
すごく重たい。今年読むべき本の1冊と思う。ちくまプリマー新書から目が離せない。たぶん「新書でゼニ儲けしよう」と考える著者がすごく少ないからなんだろうな。
〈ゆる言語学ラジオ〉つうポッドキャストの番組が面白いって息子に聞いたんだけど、これがたしかに面白い(一部若者特有の『早口』でジジイにはツライとこもあるけど)。そこにゲストとして登場する音声学者が著者なので(しかもタイトルがやさしそうだし)図書館で借りて読んでみた。そしたらこれが語り口はやさしいんだけど、中身がけっこうゴリゴリの「音声学」入門書なり。いやームツカシイ。だけどオモシロイ。
いちおう読了したが、おれのあと順番についてるひとがいないので貸し出し延長して再読することにした。
タランティーノの映画《ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド》はとっても面白く見たんだけど、それを監督本人がノヴェライズしたんだろうと思ったら、いやこれが同じようで別物。ぜんぜん別物かと思えば共通部分もたくさんアリ、つう感じ。
とにかくデカプリオ演ずる落ち目の西部劇スター、リック・ダルトンはこまっしゃくれた子役相手に演技開眼するし、ブラピの演じたクリフ・ブースは無類の映画狂で小説の全編にわたってその知識を披瀝しまくるが、いっぽうで何人も殺しまくってるのに逮捕すらされないほとんど「殺人鬼」でもあったりする(でも『牧場』からは平和に立ち去る)。
これも図書館から借り出したんだけど(高い本なので)、もっぺん細部を読もうといま二度目で借りてる。時間あったらAmazonプライムかなんかで映画と見比べてみたいもんだ。
ナンシー関はねえ、あらためていま読んでみると、活躍したのがあの時代で良かったって気がする。いや早世したのが良かったって言ってんじゃないよ。
高野秀行のブータン紀行本を読んでたら、この本をよりどころにしつつその後激変した現在のブータンを歩いたとあった。いまの王様のひいお祖父さんの時代のブータン(イケメンで驚いた前王が乳母に抱かれてる時代)。現代でも近世でもないほとんど中世的な国家だったブータンがここにあって、いやあこの変容ぶりはすごいもんだと驚いた。
繰り返し復刊されてるので「名著」といっていいんだと思うんだが、読んだのは岩波現代文庫で現在は品切れ中のもようで古本を買った。中尾佐助は『照葉樹林文化』の人って認識しかなかったんだけど、たいした探検家でもあったんだね。
すでに実質・移民国家なのにそれを認めない、そうなることも認めない。だから実際そこにいる「移民」を同じ基本的人権を持った人間として扱わない・扱いたくない。そういう公権力というのは一体全体どういうふうにクソなのか。そのクソの先に一体この国に住む全部のひとびとの幸福なんてものがありうるんだろうか。
というのを、理詰めに論理的に追及する。本は新書で軽いけど中身は重たい。重たそうなので、買ってずいぶん長いこと読まずにいたけど、マズかったなあ。
世間でブンガクの名著名作というのに、じつにまったくほとんど触れずにきた人生なので今ごろ初めてのブローティガンなり。
いやそれで申し訳ないんだけど、この時代よりあと、こういう文体(原文じゃなく翻訳の日本語)はすごくポピュラーになったと思うんだけども、それはこの藤本和子さんの文体が始まりであったのかと、いやそっちのほうに驚いてしまったのだった。
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近所のスーパーの産直コーナーから聖護院かぶら救出
http://sgodzi.exblog.jp/29758024/
2023-12-02T19:10:00+09:00
2023-12-04T07:46:14+09:00
2023-12-02T12:54:46+09:00
god-zi-lla
食いモンは恥ずかしいぞ
いつも行ってるスーパーの〈産直野菜〉コーナーにゴロっとひとつだけ、ゲンコツくらいの大きさの「かぶら」が転がってた。手に取ってみるとそれは珍しくも『聖護院かぶら』なのだった。いやーずいぶんぶりに見たなー聖護院かぶら。つか、ここいらへんのスーパーで売られてるのを見るのって初めてな気がする。
だけど、外観はちょっとショボい。葉っぱも付いてないし、夕方遅い時間でほかの「産直野菜」がおおかた売り切れたそのコーナーで、なんとなく売れ残りっぽい雰囲気でごろっと転がってたんだった。
もしもし。おまえをここから助け出してあげるから、きっと美味しい千枚漬けになるのだよ。
ずっと以前(もう10年以上前か)、これより大きくて立派な聖護院かぶらを手に入れたときは結構マジメに京都の漬物屋で売ってるような「本格的」な千枚漬けをこさえてしまったモンだが、近ごろそういう凝り性な台所仕事は(寄る年波で)極力やらないようにしてますから、今回はもっとずっとチャチャっとやっつけてみたんでした。
見つけたコイツは聖護院かぶらとしちゃ結構ちっちゃいから、「まる」のまんまをスライスして漬けてもそんなに面倒はなさそうだったけど、どうせ食べるときには包丁で切ってやらなきゃなんないしさ。タテ半分に切ればスライサーでシャラシャラと薄切りに出来そうだったから、「まる」じゃなくって「半月」にして漬けることにした。
そしてまず塩で下漬けして16時間くらい。本漬けは味醂と砂糖と塩と酢、それに刻み昆布と輪切りの唐辛子。ホントの千枚漬けは「かぶら」と昆布を1枚1枚交互に重ねて漬けてくんでしょうが、そんなことはもちろんやらない。ま、テキトーに重なってくように漬け物器へ仕込んでく。
こんな感じに漬けてって、フタをしてぐりっとハンドルをひねってちょっとだけ「圧力」かけてひと晩置いて、それから別の保存容器に移して冷蔵庫。
どうです、見た感じはなかなかイイでしょ。食べてみてもフツーにうまい。
まだちょっと浅漬かりで薄味ですけど、少しずつ取り出して食べてくうちちょっとずつ深く漬かるようになって、そういう変化も一緒に味わえばよろしいんです。
ところで最近、台所で普段使う「塩」を変えました。
長いこと愛用してたベトナムの《カンホアの塩》の500グラムの袋入りが手に入らなくなって、ここしばらくいろんなのを試してみてるんだけども、今回の千枚漬けは下の写真の《シママース》ってのを使ってる。
料理の味つけはもちろん、野菜やパスタを茹でるときとか、なにかを塩蔵するときとか、よーするにお値段のこと気にせず遠慮会釈なく使えて、なおかつそこそこ美味しい塩を「常用」したいわけだ。
沖縄の塩っつうと、たとえば《粟国の塩》なんてのはたしかにとても美味しい。だけどおれの感覚としてはうんと高い。高いからパスタを茹でるのに使おうとすると、おれみたいな気の小さいニンゲンは手が震えちゃう。その点これはそんなに高くない。そのうえわりとどこでも買える。だけど、そこそこ美味しい。
こういうの大事よね。
ところでコイツのパッケージの表面には "メキシコまたはオーストラリアの天日塩と沖縄の海水でつくりました" と比較的大きく表示してある。
これがさ。国産のわりかしお高い塩のなかに、「どこそこ(国内の地名)の塩」と謳ってるんだけど裏面に小さく「なんちゃら国の海塩に『どこそこ』の海水(あるいはニガリ)をブレンドしました、みたいなことをコッソリ記載してるのが意外とある。そのくせ結構高い。
やっぱ正直なほうがいいと思うよ。表示してるんだからウソついてるわけじゃないでしょうけど、なんかこのシママースのバカ正直っぽいところも一緒に気に入っちゃったりしてさ。
しばらくこの塩を使ってみようと思ってる。
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段ボール6箱分、レコード出てった「跡地」は本棚
http://sgodzi.exblog.jp/29615355/
2023-11-27T13:14:00+09:00
2023-11-27T13:16:06+09:00
2023-06-29T12:36:51+09:00
god-zi-lla
常用レコード絵日記
夏の盛りの、ずいぶん前の続きである。
あれから気温は25度くらい下がった。3か月かそこらで、なんかすごいよな。
つうわけで上の4枚のうち左端のJ.J. ジョンソンは、ほかのレコードと一緒に段ボールに詰めてユニオンに売り払い(買い取り価格110円)、代わりに1800円でオリジナル盤をゲットしたんでした。
そして秋口になってもうひと箱を送り出し、去年からいま現在まで宅配便の兄ちゃんに手渡した段ボール6箱。ユニオンに売ッぱらったレコードはトータル316枚になった。
はじめのひと箱ふた箱送った頃、これで少しはレコード棚にすき間ができるぜと思ってたんだが全然そんな気配がない。そりゃそうだ。棚に収まらずそこいらの壁に立てかけてあったレコードがそのすき間をあっちゅうまに埋めてしまったんであった。
ま、そうだよな。
その後、三箱四箱と送り出すあたりになって、そのうち棚のマス目ひとつ二つぶんゴソっと空きができて、そうなりゃさぞかしキモチ良かろうなあなんて思ってたんだけど、あちこちにちょっとずつすき間ができるだけのことで、ちっともキモチ良くならない。まあ、どこか棚の1か所からエイヤっと抜き出してるわけじゃないくって、棚のあちこちからあーでもないこーでもないと1枚1枚迷いながら引っこ抜いて316枚だもんな。
でもなんか、いわゆるひとつの「達成感」ってのがないの。
スカっと空いた棚を見て、うふふふって笑うとか、その空きスペースに散らかり放題の家のなかのあれこれを詰め込んで「整理整頓」した気になって、うふふふって笑うとかね。なんかそういうのに乏しい。
そりゃあっちこっちに少しずつできたすき間を、レコード動かし動かししながら寄せ集めていけば、もしかするとひとマスやふたマスのまとまったすき間くらい作れるのかもしれない。いや、きっと作れるんだよ(およそ、ひとマスに60枚くらいのレコードが入ってる)。
でもそんなメンドくさいことやりたくない。つか、いままでなん十年その逆の状況、つまり棚にどんどん余裕がなくなってきてスペースやりくりするためにレコードをあっち動かしコッチ動かしさんざんやってきたんだよ。だからそういう作業はもういい。
それよか、いちいちレコードを寄せてまとまったスペース作るなんて面倒はヤメて、たまたま空いたすき間に「本」を詰めてやるってのはどうよ。本といっても、これも置き場所に困ってる大判の写真集とか画集とかレファレンス本とか、そういうヤツ。
やってみると、これが悪くないんだ。
どっか奥にしまい込んでたり何かの下敷きになってた本が、すぐ手に取れる場所に出てきてさ。いやー久しぶりに開いたけど、いい本だよねーこれって、とかね。んー、ぎゃくに言ったら今までレコードがどんだけ優遇されてたかってことでもあるよこの狭小住宅のなかで。なにしろウチにはレコード棚はあっても「本棚」ってモンがないの。わははは。
以上、字で書きゃ大層なことのようだが、ようするにこれだけのことなんです↑
こんなふうに、棚のあちこちのすき間に現在20冊くらいの写真集やら画集やら展覧会の図録やら(これが結構デカい)が収まってて、たまにはレコードや音楽にカンケイのある本も刺さってる。できたすき間にサイズ的に合う本をジャンル構わず刺してあるだけだからカッコいいとはとても言えませんけど、いいのいいの。そもそもここは「物置部屋」なんだから。
背に 'FULL MOON' と見えるのは熟年夫婦の写真集(だれが見たいかそんなモン)じゃなくて、NASAの 有人月面探査(アポロ計画)を集大成した月面写真集。その右隣のマスにあるのはユージン・スミスのロフトの本。たまたまです。べつに駄洒落じゃありません。
あれま? ずいぶんな枝線に入り込んじゃった。
ジョニー・グリフィンと益田幹夫とオリヴァー・ネルソンの「本題」はあらためて。
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