神はどーだっていいとこに宿る


by god-zi-lla

カテゴリ:本はココロのゴハンかも( 142 )

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ふつうに暑い月末である。

アート・ネヴィルが今月22日に亡くなったんだそうだ。81歳。ネヴィル・ブラザーズとして2008年に来日したときはすでに杖をついてステージに上がっていて、2014年六本木で「ファンキー・ミーターズ」のライヴ見たときにはかなり腰が辛そうでB-3の前にちゃんとした姿勢で座ることが出来ず、ローディーの若者に後ろから背中を支えられるようにして演奏してたのを思い出す。

ひょっとしてこれが見納めかなと思わないでもなかったが、その通りになってしまった。残念。

しかし、そんなふうだったけど演奏はさすがニューオーリンズ・ファンクのお父さんだぜっていう、適当にユルくて適当にタイトなサイコーに楽しいプレイだったな。

エアロンとシリルはうんと長生きしてくれ。

謹んで冥福を祈ります。

左から。

ひよこ太陽 田中慎弥(新潮社)
箱の中の天皇 赤坂真理(河出書房新社)
最後の読書 津野海太郎(新潮社)

それから写真ありませんけど

海とジイ 藤岡陽子(小学館 図書館返却済み)

赤坂真理は読もうと思って買っておいたら音読のウォントリストに上がってきたので声に出して読み、津野海太郎は買って読もうと思ってたら次回読書会のお題になったので買ってきて読み、藤岡陽子は飯嶋和一の1100頁を音読してヘロヘロになったので下読みも下調べもせず気楽に音読できそうなのをリストから拾ってみた。

田中慎弥と赤坂真理は相当ヘンテコである。おれはどっちかつうと小説はヘンテコなほうが好みだから、どっちも楽しく読みましたけどヒトに勧めるかってばそれは各自勝手にしてくださいとしか言いようがない。

どっちも現実(みたいなところ)と現実じゃない(ように思える)ところを行ったり来たりする。それがこの二人の作風なのかどうかは全然知らないけど、その行ったり来たりが面白い。いや、世間さま的に面白いっつうのとはちょっと(いや、だいぶん)違うかもしれないけど、おれ的には面白い。

その点、藤岡陽子はヘンテコなとこはなにもない。なんていいますか、感動をありがとう! とかすぐに言いそうな人向けな感じ。まあ音読のウォントリストに上がってたから読んだんだけど、これをリストに上げた当人はこういう小説を面白いと思ったのかなって、今度きいてみようかな。

まあプロの編集者だから職業的興味から発したのかもしれない。おれなんかみたいに好きな本を好き勝手に読むのとは、そのへん全然ちがうんでしょうからね。

津野海太郎はここに書くと読書会のときに喋るネタがなくなるので書かないが、おれは大いに楽しんで読んだ。

著者の津野海太郎は1938年生まれ。アート・ネヴィルよりひとつ年下だな。装釘が平野甲賀でどう見ても晶文社の本にしか見えないけど新潮社刊。

ところで音読はいま中公新書〈兼好法師〉に取りかかってる。新書だけど古典籍の引用だらけで、このへんの教養が絶対的に足らないおれは悪戦苦闘中(ようするに声に出して読むまでがタイヘン)。

正直いって、自分の読書どころじゃないよ。



by god-zi-lla | 2019-07-31 13:00 | 本はココロのゴハンかも | Comments(2)
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新しい家財道具を入れたら本並べて写真撮る壁がなくなってしまった。

どうでもいいんだけどね。左から。

国体論 菊と星条旗 白井聡(集英社新書)
都市空間の明治維新 江戸から東京への大転換 松山惠(ちくま新書)
星夜航行 上・下 飯嶋和一(新潮社)

前の天皇が退位して新しい天皇が即位したちょうどその時期にこれを読んだのはたまたまだが、考えてみりゃ買ったのは本が出てすぐの去年でそのまま置きっぱなしにしてたのを手に取る気になったってことは、たまたまでもなかったのかもしれない。

で読み終わったとこにあの大男が海を越えてやってきて、こっちの浮かれポンチが同じ色のネクタイ締めて横に並んでぶんぶんシッポ振るのを見てしまったのもたまたまだったのか。

その、シッポぶんぶんの根っこにあるものを論じ痛烈な批判を繰り出した本なり。ちょっと強引なところもある気がするが、もっともだもっともだと首肯しつつも苦々しい読後感。

江戸はどう東京に変貌したのか、じゃなくて維新政府はどうやって江戸をぶっ壊し東京を作ったのか。なるほど江戸の広大な「武家地」は私有財産じゃなかったわけね。あれみんな幕府が公有地を大名やら幕臣やらに貸し与えてたのね。そしてそれを維新政府が没収したわけね。なるほどなるほど。それを払い下げて「街」に変えていくわけね。そうすると私有財産になるわけね(いろいろ後ろ暗いこともありつつ)。そうすると固定資産税(地租)も取れるわけね。なるほどなるほどなるほど。

「明治150年」を礼賛一色で塗りつぶそうとする浮かれポンチ政府(長州系)に、チョット待ったと一次資料を駆使して異を唱える緻密な論考である。

飯嶋和一の上下1100頁がよりによって後輩の「耳で読みたい」リストにアップされ、数か月誰も引き受けない。そりゃそうだよな。中身も重たいが物理的にも重たい。2冊で1.3キログラムもある。外出時に持って出られない(こともないが、持って出たくないよ)、寝っ転がって読んでて、ウッカリ寝ちゃって本が顔に落下したりしたら命にかかわるかもしれない。

だけど個人的に読もうかどうしようかと思ってたとこだったから、じゃあおれが音読引き受けると手を挙げた。そしてとりあえず「黙読」では読み終えたが、音読のほうはいまだ下巻の350頁あたり。スタートしたのは音声データのタイムスタンプ見ると3月6日だ。この調子だと6月いっぱいかかりそうな気がする。

自分の「読書」として読むのとは別に、音読のために1回分の範囲(だいたい15〜20頁)を下読みして漢字の読みやなどをチェックしないとシロートはとても音読なんかできない。それからMacの「ボイスメモ」を起動しアマゾンで買った安いUSBピンマイクをセットして読む。

時間にして1回分の完成データは30〜45分くらいになりますけど、なにしろシロートだから滑舌悪いわ読み間違えるわで録音に費やす時間はその倍くらい。まだまだ先は長いぞ。あと200頁ちょい。

秀吉の愚劣な朝鮮侵略が上巻450頁付近から始まって最後まで。そればっかりではないがそれが中心。物語の主人公(徳川三郎信康の遺臣)はいるが描かれるのは、日本の武士と朝鮮および明の軍人のウンザリするほどの愚行の山と、それに痛めつけられ続ける日本と朝鮮の庶民の困窮と悲惨。

なるほど秀吉の朝鮮侵略とはこういうことだったのかと(そのことが秀吉死後の日本に何を残したのかも含め)目からウロコが何十枚も落ちるが、もちろん飯嶋和一作品らしく徹頭徹尾暗くて重く、明るいエピソードなんて皆無に近い悲劇ですから、それを音読したりして何度も読むんだから結構苦しい。

先般同じ音読のお題で〈宇喜多の楽土〉つうほぼ同時代を描いた小説を読んでそれなりに面白いと思いましたけど、飯嶋和一に比べりゃおセンチなメロドラマだったな。

それから、さすがに間違ってもエヌエッチケーの大河ドラマの原作になんかなりっこないから、そこらへんとっても結構なことですね。

by god-zi-lla | 2019-06-01 12:31 | 本はココロのゴハンかも | Comments(4)
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そういえば3月31日にけっこうな雪の降った年があったよね。今から10年ちょい前くらい。あろうことかあの日箱根山中を目指していたわれら家族。

左から。

小説 阿佐田哲也 色川武大(小学館P+D Books)
唯幻論始末記 わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか 岸田秀(いそっぷ社)
劇画漂流 上・下 辰巳ヨシヒロ(講談社漫画文庫)
音楽放浪記 日本之巻 片山杜秀(ちくま文庫)
レコード・コレクター紳士録2 大鷹俊一(ミュージック・マガジン社)
辺境の路地へ 上原善広(河出書房新社)
国語学者 大野晋の生涯 孤高 川村二郎(集英社文庫)
白い孤影 ヨコハマ メリー 壇原照和(ちくま文庫)
文字渦 円城塔(新潮社)

おれは博打ずきじゃないし当然麻雀狂でもないから阿佐田哲也の小説に興味もなかったので〈麻雀放浪記〉も読んでない。ところが色川武大の小説にはすごく心惹かれるところがあるから見つければ手に取って読む。すごく心惹かれる色川武大が興味のない阿佐田哲也を書く。それを読む。もし興味のない阿佐田哲也が、すごく心惹かれる色川武大のことを書いたらおれは読んだか。

きっと読んだろうな。

30年、いやもっと前かな。〈ものぐさ精神分析〉と書名についた本を何冊も面白くて読んだ。それが「正しい」か「正しくない」かってことに興味はないんだけど、たしかにニンゲンについてのある部分がそれで説明のつくような気がして、そういうふうに見るのはとても面白いと思ってた。

その著者の回顧エッセイのようなものだが、なるほどそういう人かというのと、トシ取ったからなのかというのと、もともと大ざっぱなわけ? というがといろいろ。

だから振り返って、あの頃読んだあれはやっぱりと思い直すというようなことはひとつもない。

片岡義男が〈珈琲が呼ぶ〉で辰巳のこの作品について、とくに昭和20年代後半から30年代前半の「喫茶店」について描写した部分を中心に据えながらかなり深く触れてたのが気になってて、ようやく読んでみた。

辰巳ヨシヒロが大阪から出てきて住んだ東京都北多摩郡国分寺町に、ちょうど辰巳本人が文京区白山へ転居するのと入れ替わりくらいの時期におれたち家族は大阪から出てきて住んだ。昭和30年代のまん中くらいの時期だ。

おれは少年マガジンと少年サンデーと少年キングで育ったクチだから貸本漫画の世界についてはほとんど知らないけど、ごくたまにまだわずかに残っていた貸本屋へ行って小銭を払い店先でマンガを何冊か読んだことがある。

子供心にも貸本屋で読むマンガとマガジンやサンデーで読むマンガには間違いなく別世界な感じがあり、あの感じはなるほどこのあたりなのかという、それがつまり子どもの専有物だったマンガを大人の世界に引っぱり出そうとする辰巳の造語「劇画」なんだったんだな。

日本政治思想史関係の著書にくらべてなんとなく大ざっぱで「放談調」なのは音楽雑誌の連載だったせいなのか。この本の原著でサントリー学芸賞を取ってるというのでつい思い出してしまったのが井上章一の本で、しまいまで読んで「解説」のところまで来たらその井上章一が筆者なので少し驚いた。

レコード・コレクターズ誌の連載はいまも続いていて毎月読んでるんだけど、ずっと以前は毎号読んでたわけじゃなかったから、連載の最初のほうをまとめた「正編」が出てから20年、読みたいのに続きがいっこうに出ないところをみると売れなかったのかと諦めて忘れてたら突然「2」が出た。なんなんですかこれは。でもまあメデタイ。

いやー、それにしてもおれはコレクターじゃなくて良かったよ。コレクターは自分がなるものじゃなくて、ハタにいて見たり読んだりするのが面白い。

なんて、こんなブログにときどき目を通してくだすってる方のなかにもコレクターが何人かいらっしゃるのを承知で申し上げていいものか(って、もう言ってるじゃん)。

上原善広は旅のエッセイ集といえばそうですけど、ねちゃっと湿気が多く粘液質でニンゲンくさい(しかもかなりクサイ)のだけが並んでます。あとがきを読んでみると、それはドラッギーでもあったってことなのだった。旧赤線とか温泉芸者とか新世界とか訳あり物件とか。

異端の国語学者の評伝の著者をちょっと知ってるもんだから読んでみたんだけど、意外なくらい真っ当な読み応えのある評伝なのだった。あー、こんなこと言っちゃいけないよね。でもヘンテコな本いっぱい書いてるからさあ。

植草甚一、小林信彦、伊藤喜多男、そしてこの碩学。それにしても東京の下町の、戦災や震災で零落した商家の息子の人生はなぜだかみな面白い。そんなこと言っちゃイカンと思いつつ、だけどそうなんだもん。

メリーさんには二度心臓を止められそうになった。二度とも馬車道のディスクユニオンの入ってるビルの前ってのが自分ながら笑えますけど、柱の陰から突然目の前に現れるんだもん。遠くのほうにいるのを気付いて見てるのとは全然ちがう。

あのころ関内、馬車道、伊勢佐木町、吉田町あたりをうろうろしてればメリーさんを目撃するのは、それほど珍しいということでもなかった気がする。

なるほどこういう人生を送った人だったのかということについて、著者があまり一直線でもなく逡巡したり気後れしたりしながらぐずぐずと追いかけて書いてるところも、なんか面白い。

円城塔。老眼にはかなり苦しいアヴァンギャルド小説。ルビと本文を別々に読むってしかし、老眼は置いといても苦しいのね。ルビだけ読もうとすると本文に引きずられ、本文だけを目に入れようとしてもルビがチカチカ邪魔をする。

そしてこの怪異な異体字の世界は作字? それともJIS第236水準なんて世界がマジである?

by god-zi-lla | 2019-03-31 12:44 | 本はココロのゴハンかも | Comments(4)
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たまたま「この2か月で読んだ本」のタグをクリックしたら今回が80個めだってことに気付いた。まあこういうのカウントするのはおれの性分じゃないんだが(フザケた数をタイトルに入れたりするのは好きだけどね。『第230,467.5189回』とかさ)、まあよく飽きもせずにこんなもん80回もやってきたもんだぜと笑いつつ並んだ書名に引っかけてみただけなのよ。

しかし写真撮ろうと壁に立てかけてみれば珍しく小説しか読んでない2か月じゃん。

左から。

今夜はひとりぼっちかい?日本文学盛衰史 戦後文学篇 高橋源一郎(講談社)
忘れられた巨人 カズオ・イシグロ/土屋政雄・訳(ハヤカワepi文庫)
夏空白花 須賀しのぶ(ポプラ社)
宇喜多の楽土 木ノ下昌輝(文藝春秋)
もののあはれ ケン・リュウ/古沢嘉通・編・訳(ハヤカワ文庫SF)

高橋源一郎を、じつはいちど読み終えてから声に出して読んで録音している最中なのよ。それがアレなんだよ。とにかく石川さゆり「津軽海峡・冬景色」は出てくるし「天城越え」も出てくる。日本語のラップが出てくると思えば内田裕也の政見放送(英語)だって出てくる。

いま読んでるとこはツイッターだ。しかも「大岡昇平」と「小林秀雄」と「中原中也」がツイッターで会話してたりする。まったくもって、どうやって声に出して読んだらいいんだかわからない。

高橋源一郎は難解である。そこへもってきて朗読なんかするもんだから、難解なだけでなく難題まで突きつけられている。とりあえず石川さゆりはApple Musicから日本人のラップと内田裕也の『政見放送』はYouTubeから取り込んでみたが、どうしたらいいんだ小林秀雄のツイート。

だけど、ほんとに文学なんてもうないんだろうか。

カズオ・イシグロはファンタジーというか、寓話です。こういうものはどうなのかおれにはと思ったが読み始めたら止まらなかった。

しかしこの最初なんだかわからないモヤモヤとしたものが読み進むにつれて少しずつ像を結んでいくんだけど、最終的にそれがハッキリと読み手のアタマの中に像を結んでるのかどうかというとその寸前のビミョーなとこで読者を突き放すような感じがカズオ・イシグロなんでしょうか。

だけど、カズオ・イシグロは文学のような気がする。それはたぶんわかりそうでいながら、最後の最後にわからないものが残るから。

昭和21年8月の空の下に並ぶまっ白いユニフォームというのがタイトルな小説は、ムカシのことを今のコトバで語りすぎる、というよりか今の問題意識でムカシを語ってるきらいがかなりあってそれが相当気になってね。

なんかそういうことを、さいきん本読んでて頻繁に感じるのは、ようするにおれがトシ取ってきたってことなんだと思うんだけどさ。いいじゃんか、トシ取ったって。

宇喜多は朗読のリクエストがあって読んだんだが、予備知識にと思って読んだ前作〈宇喜多の捨て嫁〉より落ち着いて真っ当な歴史小説な気がした。〈捨て嫁〉は連作短編だからまとめて読むとややクドいんだろうな。

だけどおじさんとしては歴史小説はもっとムカシのコトバっぽいコトバ(わかる?)で書いて欲しいのよね。

「左様然らば御免」みたいなヤツさ。それがブンガクだ、なんてことは言わないけども。

ケン・リュウは前に読んだ〈紙の動物園〉て短篇集と原書じゃ本来1冊だったのを邦訳文庫化のさいに2冊に分けちゃったっていうんだけど、そんなんでいいのかね。どっちも面白い短篇集だもんだから、よけい釈然としないものが残るんだけどさ。

なんかさ、いまどきショーバイ抜きでブンガク語れるわけないでしょ、みたいな念を押されてる感じ。


Are You Lonesome Tonight? (今夜はひとりぼっちかい?)







by god-zi-lla | 2019-01-31 22:25 | 本はココロのゴハンかも | Comments(0)
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ホルモン食って欠けたのかもしれない義歯の先端は歯医者で応急修復してもらった。しかしそのホルモン屋の向かいは日本を代表する日本料理屋のひとつで(当然おれは入ったこともない)、ここじゃあ歯が欠けるような固い料理なんて出すわけないよなあ。狭い道一本隔てただけでこの差ってのがなんかいいよね(よかねーよ)。

左から。

IQ ジョー・イデ/熊谷千寿・訳(ハヤカワ文庫)
宝島 真藤順丈(講談社)
文庫解説ワンダーランド 斉藤美奈子(岩波新書)
高橋悠治という怪物 青柳いづみこ(河出書房新社)
一千一秒物語 稲垣足穂(新潮文庫)

「IQ」つうのは主人公アイゼイア・クィンターベイのイニシャルで村上春樹の小説とはなんの関係もない。LAの下町のクソ真面目でアタマの切れる若い探偵(つか探偵仕事メインの何でも屋)とその相棒の同級生でちょいワル商売人がなんとなくホームズとワトソン君で、アフガニスタンからお帰りですか的な過去の出会いと現在進行中の事件がチラチラと入れ替わる。

この仕掛けも手伝ってかなり面白く読ませるけど、このデビュー作でミステリー小説の賞をいろいろ取った中年新人がこれをシリーズ化するとなれば(すると思うけど)次回作はどーすんのかと興味津々で待つつもりになってるくらいだから、これはやっぱり面白いってことだろうな。

敗戦後から本土復帰直前まで沖縄のウラ社会とオモテ社会の境目にいる若者のウチナーとヤマトとアメリカーをめぐる青春群像冒険活劇。

著者の意図がどうだか知らないが読後今日のニュースを見ただけで沖縄の戦後は全然終わってないよなということを再認識させる。乱暴で荒っぽくて今のコトバで昔を語る無理もあっちこっちにあるけど、それはひょっとしておれがトシ取ったってことの裏返しでしかないのかもしれないから置いとくとして、強引に最後まで引っぱってく(そしてテッテ的にエンタメ小説なのに読んでからも何かしら考えさせる)チカラはたいしたもんだ。

斉藤美奈子ワンダーランドです。やっぱつまらん文庫解説を実例とともにぶっ叩く部分が痛快なのよね。レコードCDの「ライナーノート」でも誰かこういうのやってくんないかな。

あー、でもレコードCDのライナーはいまどき文庫の解説ほど読まれちゃいないか。

いつも不機嫌そうな仏頂面で滅法美味い焼き鳥を出す頑固じじいの来歴を語る本のような本です。でもだって、舞台の上に見る「現在の」高橋悠治ってもろにそういう感じだもん。だけど昔の高橋悠治はそうじゃなくてすごいかっちょよかった。そのかっちょ良さとはなにかも著者はもちろん調べ分析して語る。いやまったくもって面白い。

しかもこの本を買うわずか10数分前に高橋悠治が初めてバッハを録音したレコードを買ったところだっただからさ。なんかもう読む前から面白い。

稲垣足穂は高校生のとき以来の再読だけど、一千一秒物語のほんの一部分をオボロに覚えてただけだな。でもこれが1920年代に書かれたというのがなんかすごいよ。書かれたしょっぱなから新しいとか古いとかいう判断から抜け出してる。

だけどさ。たまたま〈文庫解説ワンダーランド〉と並んじゃったから追記しときますけど、この文庫の解説書き出しにいきなり「稲垣足穂(一九〇〇 -   )」だぜ。存命作家。いったいいつ書かれた解説かと文末を見れば「昭和四十四年九月」とありますがタルホ先生が亡くなったのは77年だから「昭和五十二年」。

おれきっと高校生のときこの解説ごと読んでるね。

奥付見ると「平成十六年」に改版してるのに解説は放置したらしいな。カバーも変わって(著者略歴にちゃんと没年も入ってる)、オビには〈ピース又吉が愛してやまない20冊!〉なんてってるのにさ。

嗚呼新潮文庫。





by god-zi-lla | 2018-11-30 12:12 | 本はココロのゴハンかも | Comments(0)
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それにしても見事な台風一過だねえ。
昼間は気温30度を超えてたもんな。

ベランダはどこから飛んできたのか葉っぱだらけ。

左から。

宇喜多の捨て嫁 木下昌輝(文藝春秋・古本)
ちゃぶ台返しの歌舞伎入門 矢内賢二(新潮選書)
断片的なものの社会学 岸政彦(朝日出版社)
藩消滅 明治維新が見捨てた藩四千人の彷徨 高橋銀次郎(叢文社)
紛争地の看護師 白川優子(小学館)
コルトレーン パオロ・パリージ/石原有佐子・訳(Pヴァイン)

同じ作家の〈宇喜多の楽土〉という小説を病床の後輩の希望で朗読・録音するにあたって、どうもその「前日譚」らしいこっちに先に目を通しといたほうがいいんじゃないかと思ったんだよ。もしかしたら自力で読書できた時期にこれを読んで、その後の話に興味を持った可能性が高いからさ。

戦国大名宇喜多秀家の父で、「梟雄」と呼ばれた宇喜多直家のものがたり。

この小説は新人にもかかわらず沢山の文学賞を取ったんだそうだけど、若い世代の時代小説家の作品というのはこんな感じなのかといろいろ感ずるところ多し。なにしろ複数の文学賞を取ってるんだから、おそらくこのへんがひとつの「頂点」だとみて差し支えないんでしょうからね。

奥歯に物の挟まったような物言いでイヤミ? 
いま、ちょうどそういうことを書いてみたい気分なのよ。

イヤミついでに書いとくとね。すでに読み始めた〈楽土〉のほうがおれはずいぶん小説として良い気がするけど、これについちゃふた月後にまた。

どうして書名に「ちゃぶ台返し」なんてつけるかなあ。げんにおれはこの書名に引っかかって一旦視野の外に追っ払ってたのをあるとき思い返して本屋で手に取って、いやあこれはとっても結構な入門書じゃんか。危ういところで良書を見逃さずにすんだわい。やっぱ本屋で立ち読みせにゃあイカンよなあと思ったのであった。

入門書ってのは初心者がなるほどそうかと思うようなことが書いてあって、それは当然のことなんだけどさ。良い入門書ってのは、こっちがその後その事物についてさらに経験を積んだあとでまた繙いたときに、なるほどそうだったのかと膝を打つようなことが書いてあったのにあらためて気づくような本で、この本はそういう一冊だと思う。

〈断片的なものの社会学〉はなんといっていいのかわかんないんだけど、いろんなフツーの人の人生についての「聞き書き」の断片の集まりで、ここからどんな回路を通過すると「社会学」というガクモンになるのかというようなことはとりあえず考えないことにして読むしかおれには術がないんだが、これは読み始めたら止まらなかった。

もちろん「フツーの人」といっても有名人や犯罪者じゃないという意味に限ったことで、語る中身は犯罪者や有名人のほうがずっと「フツー」だったりするなんてことは別に言うまでもなくフツーの現象である。

いやー「藩」はみんな明治維新で「消滅」しちゃったじゃんかという意味の消滅じゃなくて、幕末の政治状況の不条理さの犠牲になって山陰の真っ正直な小藩が、その真っ正直さゆえに消し飛んでしまった事実をおれの先輩が小説にしたんであった。

小説としては正直言って欠点や未完成なところも多いんだが、それはそれとしてこういうことが幕末・明治維新の時代にあったのかという新鮮な驚きがあるんだよな。

明治維新嫌いにはオススメします。とくに長州。
ちなみに著者は神田生まれの江戸っ子なり。

〈国境なき医師団〉には毎月ごく少額の寄付を続けてる。いっぺんどこかの紛争地に医療団を派遣するというのに寄付をしたら、それ以来定期的にニュースレターが送られてくるようになってね。

まあそういう宣伝はこうした非営利活動を持続するためには必要不可欠なことではあるわけだが、毎月のように送られてくるとなれば制作費に送料にとバカにならない費用がかさんでるに違いない。じゃあせめて自分ちに届くニュースレターの分くらいは負担しようと、3年ほど前から子どもの小遣い銭程度の寄付を毎月するようになったんだけどさ。

その、届いたニュースレターにこの本の紹介があった。

いやあ戦場の近くや難民の集まる場所、あるいは大災害のあった地域にいち早く乗り込んで医療活動をするということの「実際」について、自分がなんの想像力も持ち合わせてなかったことに気づかされた。

これはもう、どう説明していいかわからない。

手や足が(あるいはその両方が)地雷でもげた子どもたちが何人も運び込まれる。点滴を打たなければならない患者がいても気温50度を超える炎天下の屋外ではそれができない。手術は成功したものの仮設テントでは術後の管理が出来ず、あたら命を落とす少女。急病で運び込まれた女性に治療を施そうとしたら妊娠していることが判って外科医(産科医が現場にいないから)が帝王切開を行うと、とりあげた赤ん坊が呼吸をしていない。それからそれから。

これらひとつひとつが伝聞でなく著者が実際に接して治療に当たった人々のことで、読んでいると救った命より救えなかった命のほうが多かったんだろうと想像がつく。

すると当然著者はその目の前の過酷な現実を通して「世界」について考えざるをえない。

おれはこういうことはめったに思わないんだけど、この本はひとりでも多くの人が読んだほうがいいと思う。

〈コルトレーン〉はすでにここで


by god-zi-lla | 2018-10-01 18:56 | 本はココロのゴハンかも | Comments(0)

コルトレーンのコミック

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涼しくなったらアレしようコレしようって、なんでもかんでも問題先送りしてるうちに9月も3分の1じゃんよ。けど暑い。だからまだアレもしないコレもしない。涼しくなったら忙しいぞお。

でもね、涼しくなったらなったでいろいろ口実作ってモンダイ先送りするだけのことなのさ。おれのような怠惰な人間というのは年がら年中そんなもんよ。

ついせんだってのことだが、なんだったか忘れたけど紀伊國屋書店のウェブショップで本の検索してたらコルトレーンの知らない本が一冊引っかかってきた。それがどうも外国産のコミックらしい。表紙の画像を見ると〈Blue Train〉のジャケット写真をもとにしたらしいイラストで、文字通り「目が点」なのだった。

こういうふうにコルトレーンを描くかよ。これってギャグマンガか。

まあこういうときはウダウダ迷ってるよりも買ってみるに如くはない。

ところがね。これが読んでみるとしみじみとして面白い。コルトレーンの生涯がコミックで語られるんだけど、コルトレーンの音楽をある程度熱心に聴き続けてそれなりに本も読み散らしてきたような人間からすると、とくに知らないエピソードがあるわけでもない。しかもコルトレーンの人生が時系列に語られてるわけでもない、というか意図的に前後を行ったり来たりするように描かれている。

で、全体は四つの章から成り立ってる。承認。決意。追求。讃美。この四つの章の名前がどこから取られたかは説明不要だけど、中身がこの四つのコトバに沿って描かれているともいえない。

おおまかな伝記的要素は事実のとおりだと思うが一部フィクションが挟まれてて、アレっ?と思うとそれは承知のうえの改変だと作者が「あとがき」で触れている。

それからおそらくその全部が作者の想像(創造)だと思われるシーンはコルトレーンが折に触れて悩んだり苦しんだり決意したりするところのあらゆる描写で、だけど読み進むとその部分こそがこのコミックのなかでいちばんイタリア人作家が描きたかったところなんだろうと判る(そのために伝記的事実の一部をあえて改変し省略し並べ替えてるわけだ)。

だからなんというかこれは伝記や評伝でなくてコミックで表現された詩のようなもので、作者のコルトレーンへの「至上の愛」の表明なんだろう。

つうわけでコルトレーンといえば〈Ballads〉と〈And Johnny Hartman〉というような聴き手にこのコミックは不要で、長期にわたってもうちょっと中毒的にコルトレーンを聴き続けてしまって取り返しのつかないことになってる古臭くて石頭の、おれのような聴き手への「解毒剤」として結構有効な気がする。

ようするにまあ、ココロを動かされてしまったんだな。このスレッカラシが不覚にも。

下はコルトレーンがアリス・マクロードとの出会いについてドルフィーに語っているシーン。こんなふうにコルトレーンとドルフィーが酒場の止まり木で並んで酒を飲んでいるなんてことを、おれはいままで一度も想像もしなかったけど、思えばそんなことはいくらでもあって不思議じゃなさそうだ。なんで想像もしなかったのかな。

そのへんが「解毒剤」なのよ。



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COLTRANE パオロ・パリージ/石原有佐子・訳(Pヴァイン・発行/日販アイ・ピー・エス・発売)

*巻末に大谷能生の短いけど気の利いた解説が付いている。コルトレーンのことをよく知らないで買っちゃった人はせめてこの解説を先に読むのがいいと思うね。B5判128頁。



by god-zi-lla | 2018-09-09 07:54 | 本はココロのゴハンかも | Comments(6)
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ビールだねえ。

左から。

蜩の記 葉室麟(祥伝社文庫)
お隣りのイスラーム 森まゆみ(紀伊國屋書店)図書館
セックスの哀しみ バリー・ユアグロー/柴田元幸・訳(白水社)
ポピュラー音楽の世紀 中村とうよう(岩波新書)古本
僕らの歌舞伎 先取り! 新・花形世代15人に聞く 葛西聖司(淡交社)

葉室麟は初めて読んだ。読書会のお題。御用商人と結んで藩政を私する家老一派に立ち向かう篤実な武士と腕の立つ若侍、つうようなありきたりの道具立てに味つけ少々といってしまえばそれまでの、途中から結末も見えてしまうオーソドックスな時代小説なのに最後まで引っぱって飽きさせないところが作家の力量というものなんだろうな。

読書会の若いメンバーのサスペンスが足らないといいつつ、でも、それってぼくがそういうものを求めたのが間違いってことですかね、というから間違いってことはないだろうけど、時代小説好きは求めないかもねサスペンス。でもあるヤツもあるよね時代小説でサスペンス。

そのときは知らなかったけど、あとで直木賞選考委員のコメントってのを見たら、まさにそういうことを言ってる委員もいたみたいだな。

難病で本を読むための身体機能を失った後輩の「読書の楽しみ」のために、有志が本や新聞雑誌の記事を「朗読」して録音したデータを提供しているので、おれもそのなかに加えてもらった。

本人のリクエストする本を何人かで分担して読んでそのデータをアーカイヴしていく。だから一冊まるまるひとりが読むわけじゃないんだけど、この日本にいる各国のムスリムに森まゆみがインタビューした本は自分も読んでみようかと思ってた本だったから担当した以外のところもあとで(声には出さずに)読んでしまったんでした。

いやー、なんだかんだ。おれももっと日々ちゃんと暮らさなきゃなあなんて、後輩のために声に出して読むということと、この本に描かれた日本にいろんな事情でやってきて生活するムスリムの人たちのことと、両方のことをなんとなく考えるうちにガラにもないことを思っちゃったりしたのであった。

ちなみに「朗読」は〈ボイスメモ〉ってiOS付属のアプリでiPhoneに録音する。言い間違えたら編集(ったって上書き再録音するだけだけど)できるので便利なり。「メモ」だからデータ容量の制限があるかと思ったら1時間超えても大丈夫だから、ストレージの残量に制約されるだけかもしれない。

ちなみにこの本のことを後輩は、だれかが同じようにして読んでくれた書評を聞いて興味を持ったらしい。

バリー・ユアグローって作家は宗助さんに教わるまでまるで知らなかったんだけど、なんとも曰く言いがたいこれは作品だなあ。それで、読み進めるうちに高校生のころ読んだ稲垣足穂の〈一千一秒物語〉のことがしきりに思い出されてならない。

あまりに頭のなかを稲垣足穂がちらちらとするから、新潮文庫を買ってきて読み始めた(高校のときに買ったのもきっと新潮文庫だったにちがいない)。そしたら、まるで似てるとこなんかないんだけど、ユアグロー読んでこれを思い出すということについて自分としては妙に納得できるのであった。

で今は稲垣足穂読んでる中。

とうようさんは〈大衆音楽の真実〉と論旨的にはけっこう重複してんじゃないかと思うんだけど(もう手元にないから当てにならないけどさ)、この岩波新書のほうが後から書かれたということもあってか、わかりやすい気がする。版元品切れらしいのが残念だな。

梨園の若い御曹司に芸の話を聞いてるインタビュー本はしかし、舞台のうえで「なんだかなあ」と思わせる青年はコトバのうえでも「なんだかなあ」で、「コイツはたいしたモンだなあ」と思わせるヤツはそれがやっぱコトバにも出てるもんだから、これは結構あからさまな恥ずかしい本だったりするんじゃないかしらん。

まあしかし、おれみたいな初心者が言うのもなんですけど、20代前半の若い役者ってのは1年舞台に出づっぱりだったりするとまるで変わっちゃったりするからね。「なんだかなあ」の青年もまだじゅうぶん逆転可能なのかもしれない。

そういうなかで、中村梅枝はもう若手花形役者という範疇を乗り越えつつあると、個人的には思うんだけどね。


by god-zi-lla | 2018-08-01 18:19 | 本はココロのゴハンかも | Comments(0)
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左から。

紙の動物園 ケン・リュウ/古沢嘉通・編訳(ハヤカワ文庫)
本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた 横尾忠則(光文社新書)
遠い山なみの光 カズオ・イシグロ/小野寺健・訳(ハヤカワ文庫)
ルネサンス 天才の素顔 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ 三巨匠の生涯 池上英洋(美術出版社)
晩鐘 上下 佐藤愛子(文春文庫)
桂吉坊がきく 藝 桂吉坊(ちくま文庫)
不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか 鴻上尚史(講談社現代新書)
往復書簡 初恋と不倫 坂元裕二(リトルモア)


ケン・リュウは読書会の20代のメンバーが教えてくれた中国系米人作家だけど、同じ中国系のテッド・チャンよりもずっと自分の出自に意識的な作品ばかりだ。あんまり意味のある比較じゃないけど、ロジカルさではテッド・チャンか。それはともかく、これがどれも面白いんだな。表題作には不覚の涙が溢れそうになって困った。

横尾忠則は朝日新聞の書評欄掲載の文のまとめ。なにがすごいって横尾画伯が読む本はこの書評の本だけだというんだよ。読書好きじゃないから仕事で仕方なく読む書評のお題だけが自分の読書機会なんだと。それは繰り返し新聞紙上でも語ってる。それがきっと横尾画伯の書評の面白さの大きな一部分なんだろうな。

長崎生まれで英語を母国語として育った日系英国人作家が長崎を舞台に日本人だけが登場する作品を英語で執筆し、それを日本の読者が日本語訳で読む。というその事態自体がすでに面白いだろ。

奥さんが読み終わって捨てようとしてるのを拾って読むルネサンス。いやじつはちょっとしたウンチク系つうかトリビア系つうかそういう本かと油断してたら、ごく真っ当なルネサンス三巨匠の初心者向け略伝集というような本だったので、なーんにも知識のないおれにはとっても興味深く読めたのでした。

佐藤愛子の小説ってじつは読んだことなかったんだよ。父親も兄もマトモでない家庭に生まれ育ち、マトモでない男と結婚し別れてその借金を抱えて悪戦苦闘する人生だというのはなんとなく知ってたけど、いやそのマトモでない夫の人生を佐藤愛子の視点から描いてるんだが、老作家が淡々と書きましたというような風情がまるでなくて、人間に対するあくなき好奇心がこの作家の執筆エンジンなんだろうな、なんてことを思ってしまう。

吉坊が芸談を聞いたのは小沢昭一、茂山千作、市川團十郎、竹本住太夫、立川談志、喜味こいし、宝生閑、坂田藤十郎、伊東四朗、桂米朝。訳知りの老練な聞き手じゃない若造の聞き手が聞く芸談の面白さと物足りなさの二つながらにあるけど、一生懸命聞こうとする吉坊のために、聞かれてないことまで喋ってやろうとしている各界の大家たちの暖かさというようなものがほんのりあるな。

鴻上尚史は読書会のお題。おれの親父は予科練おしまいのほうの技量きわめて未熟な航空兵で、香港、台湾などを転々としたあと最後は特攻訓練中の東北の飛行場で敗戦を迎えたんだそうだが、その親父によれば8月15日午後武装解除して全員帰郷せよという上官の命令のあった後「上の方から先にいなくなって、われわれ下っ端が最後に残った」と繰り返し述懐している。海軍では船が沈没するとき艦長は最後に船を離れるもんだって何度も聞かされたもんやけどなという言葉といつもセットで。

腐った生ゴミのような高級職業軍人=軍官僚がどのように寄ってたかってこの国を滅ぼしたか、そのひとつの例がこの本にある。

というだけじゃ語り得ない複雑多岐にわたるテーマが山ほど潜んでいて、読書会では会話が途切れる瞬間がなかった。

坂元裕二という人はテレビの脚本家だそうだけど、おれはテレビドラマつうのを見ないからぜんぜん知らなかった。それを読んでみたのはこれも読書会の30代のメンバーが面白いから読んでみてと勧めてくれたから。

「往復書簡」だから手紙だがメールも手紙だからどっちも混ざっていて、その区別に意味がないようでいて意味がある(テレパシーもあるし)。「往復」する「書簡」だけで構成されているので「ト書き」なしの台本のようにも読める。実際これは何度も繰り返し舞台で上演されてるらしいんだが不覚にも知らなかった。しかし「書簡」だから朗読劇なのだろうか。

二編収録されていてそれぞれ単独作品のようでもあり、豆生田という同じ登場人物が繋いでいる連作といえるのかもしれない。

そして、どちらも不穏で不安で穢れているようでもあり純粋のようでもあって、だからきっと面白いんだろうと思う。

どうでもよろしい話だが、その登場人物の豆生田は炒飯をおかずにご飯を食べるのが特技だというんだが、じつはおれの先輩に炒飯をおかずにご飯を食べた人がいる。しかし、その話があちこち伝わるうちに炒飯をおかずにご飯を食べたのはこのおれであるということになっていて、それはおれならいかにもやりそうだというたんなる先入観というやつなのだが、まったくの濡れ衣というものである。

この際申し上げておきますけど、炒飯をおかずにご飯を食べたのはおれじゃなくてナカタニ先輩だからな(ちなみに彼は吉野家で牛丼をおかずにドンブリ飯を食べたこともある。考えようによっちゃ、そのほうがすごいかもしれない)。




by god-zi-lla | 2018-05-31 19:04 | 本はココロのゴハンかも | Comments(2)
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きょうは近所の児童公園でそこの町内会の「桜祭り」だが、毎年毎年葉桜の下だ。1週前の土曜日に役員のひとたちが提灯をぶる下げたりする準備をしてるんだが、そのころ桜はまさに見頃なのであった、例年どおり。

左から。

日の名残り カズオ・イシグロ/土屋政雄・訳(ハヤカワepi文庫)
私の浅草 沢村貞子(暮らしの手帖)
珈琲が呼ぶ 片岡義男(光文社)
田中小実昌ベスト・エッセイ 田中小実昌(ちくま文庫)
五番町夕霧楼 水上勉(小学館P+D BOOKS)
クマにあったらどうするか 〜アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 姉崎等・語り手/片岡龍峯・聞き書き(ちくま文庫)

カズオ・イシグロを読書会でやるのは〈わたしを離さないで〉以来2作目。いやもう何も申し上げることなどございません。この結構な時の行き来を滑らかに読ませることといったら。

70年代もおしまいの頃、雑誌「暮らしの手帖」の新聞広告の脇に花森安治の書き文字で〈私の浅草〉とある単行本の広告が抱き合わせで何回か出た。読んでみたいよなあと思いながら買わずにいたら、そのうちエヌエッチケーの朝のドラマの原作になり世間で話題になった。まあ仕方ない、ほとぼりの冷めたころに読んでみようと思ってたらそのままになっちゃった。

それがなんでまた今ごろになってかっつうと角川シネマ新宿の大映女優祭の1本としてかかった黒澤明の〈羅生門〉をたまたま見たら加東大介が出ていた。

加東大介の姉は沢村貞子だったよなあ。沢村貞子といやあ〈私の浅草〉を読もうと思ってそれきりだなあ。

で大きな本屋で文庫の棚を端から見てったら平凡社ライブラリーにあるのがわかったんだけど、たまたまその日は荷物がいっぱいで買わずに出てきたもんだから、あらためて紀伊國屋書店のウェブストアで検索したところ元の版元の暮らしの手帖社から新装版が出てるのを知って、値段もあまり違わないから味気ない装丁の文庫版よりオリジナルの花森安治装丁のイメージを引き継いだような新装版のほうがいいと思って注文したんでした。

まわりくどい話をすまんね。

だけど20代のころに読みそこなって、じいさんになった今はじめて読んでこれは良かったね。ハタチそこそこの若造にはもったいねえや。

片岡義男は珈琲についての蘊蓄を語るわけじゃなくて、珈琲を出す店、そこを行き交う人の来し方行く末、珈琲と音楽、珈琲と映画、それを聴く人見る人。

ようするに、珈琲が人生に呼び込んでくるモロモロである。

その片岡義男が田中小実昌のエッセイのアンソロジーに「解説」を書いている。田中小実昌と片岡義男を繋ぐものは英語、または翻訳。田中小実昌と片岡義男がゴールデン街の酒場のカウンターでたまたま隣り合わせに座って飲んでいる、なんて情景はこの解説を読むまで想像もしなかったけど、それはじゅうぶんアリなことだったんだな。

「ベスト」なので既読の作品もけっこうあったけど、何度読んだっていいものはいいんだよ。

水上勉は〈飢餓海峡〉しか読んだことがなかったが、なんだか後半みょうに筆を急いだふうに思えるのは気のせいかな。分量的にあと三割、できれば五割増しくらい書いてほしかったなんていう感想はヘンだけどさ。飢餓海峡のほうがぎゅうぎゅうといろんなものが詰め込まれて、ずっと読み応えのある小説だと思う。

生涯に60頭のヒグマを仕留めたアイヌの猟師が語るわけだから、これはすごいよ。しかもほとんど単独行で山に入って熊撃ちをしてきたというんだから経験の質と量が半端じゃない。しかしそもそもなぜ単独で山に入るようになったかといえば和人との混血でアイヌの集落では若いころ差別的な扱いを受けていたのがきっかけというのが少し悲しい。

まあそれはともかく、じっさいおれたちがそういう現場に遭遇することがあるかどうかわかりませんけど、クマがどういう野生動物でどのくらいの知能でどのくらいの運動能力があって、山に入ってくるニンゲンをどこからどうやって見てるのかを経験的に知ったうえで、突如メンと向かって出合ってしまったクマにどう対処するのがよいのかを本一冊使って語り尽くしてるんだな。

聞き書きだから何度もダブってるところも多いんだけど、一読、もうクマに出合っても大丈夫な気がしてきます。

それから写真に写ってませんけど、セトウツミ 此元和津也(秋田書店)全8巻完結したので読了。いやー、こういう結末を作家は最初から構想して書き始めたのか。すごい。

by god-zi-lla | 2018-03-31 12:10 | 本はココロのゴハンかも | Comments(2)