神はどーだっていいとこに宿る


by god-zi-lla

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6月23日の昼下がり、四条南座へ〈NARUTO〉見物ついでに京洛をぶらぶらしようと新幹線を降りる。今年二度目の京都、といっても前回は近江の山中奥深く分け入り曜変天目拝みに行くのにカスっただけでしたけど。

しかし蒸し暑いね。ま、蒸し暑いのはこの時期京都に限ったことじゃないけど、さてどこ行くか。芝居は明日で、今夜の飲み会は7時からだ。ちなみにこの日京都の日の入りは7時過ぎだから、まだまだ当分陽は高いぜ。

さすがの京都もこの季節、「特別拝観」なんてのもあんまりない。そりゃそうだよな、こんな湿気の多い時分にお寺のお宝なんか公開してカビでも生やしたら大ごとだもんな。

だから大抵は大きなお寺の塔頭の庭園に咲く季節の花の「特別公開」とかね。まあそれはそれでなかなかに良いものではあるんです。とくにあたしらのような老夫婦には。

事前に調べてみると「重要文化財 旧三井家下鴨別邸」のアジサイの庭を無料公開してるというじゃんか。んー「無料」に弱いのよね。それに三井家の別邸ってのも全然知りませんでした。財閥だからきっとすごいんだろうな重文だし。

新幹線降りて在来線に乗り換え東福寺駅。そこから京阪電車で終点の出町柳まで行けば下鴨神社はすぐだ。その別邸は神社の参道脇にある。だいたい場所がすごいよな。

行ってみるとアジサイの庭ってのは去年作ったそうで、そんなに広くない。まあそうだな、都内でいまアジサイが見頃なのは駒込の六義園あたりでしょうが、その六義園のアジサイの百分の一くらいですかね。庭の片隅に控えめに作った感じ。

ちょうどこの庭を管理してる造園会社の社長さん(庭師の棟梁というにはややインテリっぽい人だったけど)が、いろいろ説明をしてくれる時間に当たったもんだから「土壌が酸性だと青味の強い花が付き、アルカリ性だと赤みがかった花が付きます。リトマス試験紙とは逆なんですよね」なんつうお話に、なるほどーなんて感心しながら拝見したんでした。

上の写真は旧三井家下鴨別邸に拝観料410円払って入り(『旧』というくらいで今は国の持ち物で京都市が管理してるらしいから、三井じゃなくて京都市がお金取ってる。どうもアジサイの庭の無料公開はこっちに誘導するための客寄せ企画だったみたい)、庭園の庭の池に浮かべられた(つか、なかば沈められた)アジサイの切り花。さきほどのアジサイ園で摘んだんでしょうかね。ちょっとわからない。

だけど、こういう季節季節の「作為」をけっこうやるもんなんだろうな、立派な庭園をやる庭師さんつうのは。

以前、冬の初めころの天龍寺の小さな池の底にモミジの葉がみっしりと沈められてたのを見たし、妙心寺の塔頭、退蔵院の庭の一隅にもやはり自然に吹き溜まったとは到底考えられないような量のモミジの葉がこんもりと敷き詰められたのを見た。ああいうのとおんなじ企みだろうな、この池のアジサイも。

まあこれはこれで趣向なんでしょうが、一瞬ミレイの〈オフィーリア〉を思い出したりして、キレイなんだかブキミなんだか困ったところではあったのであった。




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そのアジサイの葉っぱの先に止まる小さな、これはハエ? 金色の背と羽がなかなか。体長5ミリくらい。



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ジミで実直そうな甲虫くんは体長3ミリくらいだったかな。アジサイの花の蜜が目当てなんですかね。



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こっちはもう間違いなく蜜を吸ってるハチ、いやアブかな。これも小さい。

初夏といえば昆虫も書き入れ時だよな。ほかにもいろいろいたけどシロート写真なのでなかなかうまく撮れません。このハチは足の先のところに蜜の水滴みたいのを抱えてるように見える。すごいね。あんなに小さなアジサイの花を、どんだけ飛び回ると集められるんでしょうか。

つうわけで、あたしら老夫婦は旧三井家下鴨別邸を後にして飲み会の前に宿にたどり着いて旅装を解くべく、鴨川の河原をとぼとぼと歩き始めたのであった。

鴨川ってくらいだから鴨川にはカモがいるのかどうかはよく知らないが、とにかくカモは鴨川で珍しくない。シラサギもいればアオサギもいるが、やっぱり鴨川だからカモだろうな。まあいいんですけど。

だけど京都の人はいいよね、鴨川があって。なんとなく歩いてる若い男の子と女の子とか。小さな網持って川に入ってるオトーサンと子どもとか。ピクニックに来ておべんと広げてる若者とか老人とか外人とか。ベンチに腰かけて本読んでる人とか。司法試験のおベンキョしてる人とか。ジョギングしてる人とか。ボール蹴ってる親子とか。キャッチボールしてる親子とか。ただ昼寝してる人とか。

名所旧跡とかお寺とかはべつに近所に欲しくないけど(寺はけっこうあるし)、だけどもし、京都の人がおれになんでもいいから京都名物なんか1個だけくれるっていうんだったら、おれんちの近所に鴨川1本ください。



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まあそんなことフツーはムリだよなーなんて思いながら鴨川の水面のカモ見てて、ふっと道ばたになんか生き物の気配を感じて目を移したら、ありゃまこんなところにカモが「つがい」でいるじゃないか。何してんだろ。おれたちが近づいてもまるで動じない。

カモの甲羅干し? まさかね。

まあでも、カモといやあ道路横断して「お引っ越し」するのが各地の季節恒例のニュースになったりするくらいだから、べつに不思議でもなんでもないのか。



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じゃあこっちはどーだ。

そのカモの甲羅干しからほど近いところでリヴァーサイドの瀟洒なマンションを見上げながら、このへんのマンションはきっと高くておれたちじゃ買えないんだろうなあ、なんて言ってたらベランダのところに止まって鴨川のほうを見てるのはひょっとしてトビじゃあるまいか。んー、トビなんて空の高いところをぐーるぐる旋回してるとこしか見たことなかった。

うちのベランダの手すりにもスズメやカラスが時折止まってたりしますけど、トビが止まって羽を休めてるところがやっぱ京都だよなーって、いったいどこが京都なのよ。





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あくる6月24日は午前11時から南座で〈NARUTO〉見物。それはまた別途。
前夜は虎吉さんにとても良い酒と肴の店に連れてってもらったが、それはヒミツ。

芝居が跳ねたのは3時前だから晩メシにはまだまだ早すぎる。奥さんが調べたところ建仁寺の塔頭、両足院の庭の「半夏生」が見頃だっていう。よし、半夏生ってどんな花だか知りませんけど、きっといい庭に違いない。南座から建仁寺は目と鼻の先だしね。

「半夏生」ってのはウィキペディアによれば「天球上の100度の点を太陽が通過する日…」で毎年7月2日頃だとある。そのころに咲くのが「ハンゲショウ」で、同じくウィキペディアには「半化粧」とも書くとなっている。

で、その庭のハンゲショウが上の写真なんである。庭園の中央部ではもっとたくさん咲いてたんだけど、この小さな門と踏み石がいい感じで気に入ったので、そこの写真にしてみたんでした。

花というよりも、葉っぱが白くなってるようにしか見えない。つか、実際そういうものらしい。花がジミなので、目立つように花のすぐ下にある葉っぱを白く変化させるという作戦みたいだ。いろいろ考えるんだな。

そういやアジサイの説明のなかで造園会社の社長さんがアジサイの「花」に見えるのが実はガクで、花自体が小さくジミだからそのすぐ下にあるガクが目立つように変化したんだって言ってた気がする。おんなじようなことなんだろうな。

で、ふと思い出したんだが、これが「ハンゲショウ」というんだったら、きのう見てるじゃん。しかもそのアジサイの旧三井家下鴨別邸の庭のどっかで、これ変わってるな。なんていう植物なんだろって写真を撮った。





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あった、あった。やっぱ旧三井家下鴨別邸だ。
これが、ハンゲショウだったんだな。

by god-zi-lla | 2019-06-29 13:19 | 物見遊山十把一絡げ | Comments(2)
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そうやってニンゲンはボケていくわけなのであるが、それでもなおかつ覚えてる芝居を忘れられない芝居というのである。

って、なに言ってんだおれ。

とにかくどんどん忘れちゃうので、このブログの他人さまにはご覧いただけない場所に見物した芝居をひそかにメモしてある。それを見返すと先週金曜池袋で見物したモダンスイマーズの〈ビューティフルワールド〉が今年15回目の芝居見物なのであった。

その15回のうち歌舞伎役者がやる「歌舞伎」が6回、歌舞伎役者じゃない俳優が歌舞伎の演目をやる「木ノ下歌舞伎」に1回、あとの8回はいわゆるひとつのストレートプレイつうか普通の芝居。

「ストレートプレイ」つうと台詞の芝居、つかミュージカルじゃない(=歌わない踊らない)舞台を指すらしいが、名古屋の少年王者館が初台の新国立劇場小劇場に出張ってきた〈1001〉は相当歌って踊るが、まあしかしミュージカルとは言わないだろうな。

そういや横浜のKAATで見物した木ノ下歌舞伎の演し物は〈摂州合邦辻〉つう文楽や歌舞伎で繰り返し上演される有名な芝居だけども、けっこう歌って踊る。しかも男はスーツ、女はスカートつうような衣裳で。

まあしかし、あれをミュージカルとは言わないだろうな。でも「歌舞伎」でもない。

だけど「普通の芝居」か。じゃ「普通の芝居」ってナンだ。まあいいや。

それはともかくとしてだな。去年おととしあたりから蓬莱竜太の書く芝居がすごく気になり始め、今年になってから3月に紀伊國屋ホールで〈母と惑星について、および自転する女達の記録〉、4月は池袋のシアターイーストで〈まほろば〉、5月には紀伊國屋サザンシアターでこまつ座〈木の上の軍隊〉(井上ひさしの着想を蓬莱が具体化)、そしてつい先日蓬莱竜太が共同主宰する劇団モダンスイマーズの〈ビューティフルワールド〉(作と演出)をシアターイーストで見物したから、もう4演目だ。

蓬莱竜太といえば「母」である。といってもいいんじゃあるまいか。なにしろ蓬莱における「母」はトンでもなくトンでもない存在である。家族を繋ぎ止めようとして、かえって解体を促進するような存在である。自己犠牲の皮を被った自己愛のような存在ともいえる。クラッシャーマムである(そんなコトバあんのか)。今年前半見たのも、井上ひさし原案の〈木の上の軍隊〉を覗く3つは「母物」である。

それから蓬莱竜太といえば、会話の(とくに芝居始まって序盤の)「間の悪さ」と「噛み合わなさ」。

あの居心地の悪さってのはどういうふうに脚本のなかに「文字化」されてんですかね。演出も自分でするならいざ知らず、たいていのばあい脚本書いてあとは演出家がなんとかするわけでしょうから。とにかくその「間の悪い」「噛み合わない」コトバのやりとりから登場人物おのおのの関係を見せていく感覚が面白い。

考えてみれば「噛み合ってない」んだから、そもそも人間関係はキチンと「構築されてない」ともいえるわけで、しかしそれが芝居が進んでいくにつれて暴かれつつ「崩壊」してくんだから、ニンゲンカンケーってのは「構築」なんてされないまま大抵のばやい「テキトーに取り繕われた体裁だけ」で成り立ってるってことなんだなあなどと、芝居が跳ねたあと思ってしまうのであった。

そのわりに芝居全体のトーンは暗くない、ようにおれには見える。なんらかの救いのようなものが見える。蓬莱竜太はニンゲンとニンゲンの関係に絶望してるわけではないという感じ。

「木の上の軍隊」という芝居は、敗戦後沖縄で実際にあった出来事の新聞記事に着想を得て、井上ひさしがこまつ座の芝居にするために簡単なメモとタイトルを残してたらしい。ようするに脚本そのものはほぼ蓬莱竜太のオリジナルってことみたいだ。

6年前に初演を見たが、今回のほうがより沖縄の地上戦と現在についてのメッセージ性が強化されてる。そのように脚本も演出も変更を加えてあると芝居が跳ねた直後は思ってたんだが、どうもそれはおれの勘違いで、沖縄についておれの関心が6年前よりもはるかに高くなってるからそう見えたんじゃあるまいか。

戦争を題材にした井上ひさしの芝居は、ときに作者のメッセージがシンプルに刺さり過ぎてウンザリするくらいのことがあるけど、蓬莱竜太の脚本もけっこう直線的に沖縄の昔と今に対峙してる。

まだまだいろいろ見たい蓬莱竜太。

蓬莱竜太といえば数年前、赤坂ACTシアターの「赤坂大歌舞伎」で勘九郎・七之助の中村屋兄弟のために作った〈赤目の転生〉がすこぶる面白く、それが遅まきながら蓬莱竜太の芝居にグッと引き寄せられるキッカケだった。時制を巻き戻しちゃあ同じシーンに戻り、少しだけ違う展開になる。こんなことを歌舞伎でやれてしまうところがスゴいと思って見物したが、それほど話題になったようにも思えない。

野田秀樹の歌舞伎を最初に見たのが古い歌舞伎座最後の冬の〈野田版鼠小僧〉で、勘三郎ほかの芝居もともかくとして、役者の身体能力、極端なアスペクト比の舞台正面、そして舞台機構とかそういうものすべてをひっくるめた「歌舞伎」の特質をめいっぱい使って見せるチカラワザに驚いた。

そして、それとはちょっと違うが、やはり「歌舞伎」の持つ特性みたいのを蓬莱竜太も赤坂の舞台で引き出してたように見えたんだが、今月歌舞伎座の三谷幸喜〈月光露針路日本 風雲児たち〉はなんか当たり障りのない「新作歌舞伎」つう感じで見終わってしまった。

三谷幸喜らしく面白いけど、ぶっちゃけ、ただ面白いだけのことだ。

まあ、こっちがへんに刺激を求めるのがイケナイのかもしんないけど、名のある演劇人が歌舞伎の世界に乗り込んできてなんかやるっつうのに、そういうの期待するなってのもアレだろ。

そういう意味でいうと2019年、ここまで(歌舞伎も歌舞伎でないのも含め)芝居をいくつか見たなかで一番印象深かったのが天王洲のデカい倉庫に仮設の舞台を設えて上演された〈女殺油地獄〉だった。

〈女殺…〉つうのは近松門左衛門の作った、歌舞伎としちゃあ珍しく非常にリアルなストーリーで、実直で裕福な商家の息子が、親が甘々なのをいいことに増長して遊び呆け、親に黙って親を保証人に立て返す宛てのない高利のカネまで借りて遊びにつぎ込む。

そのバカ息子に親の同業者の善良な妻が親切に意見するのも聞かず、とうとう親にも打ち明けられぬまま返済期限が来て窮した挙げ句のはてに、よりによってその親切な同業者の妻を殺して金を奪うという、いま起こってもそう不思議じゃないような殺伐とした惨劇なわけだ。

その殺伐とした芝居を殺伐としたコンクリ打ちっ放しの倉庫でやる。しかも客席は四方にあって舞台を囲む。近ごろストレートプレイならとくに珍しいというほどでもないけど、少なくとも歌舞伎で見るのはおれは初めてだ。

当然、歌舞伎の書き割りのような舞台装置はなにもない。客席から舞台の役者を見れば、その背後も照明を落とした客席の闇だ。

これが、この陰惨でイヤな感じの芝居にぴったりとハマってる。

もちろん役者の拵えは当たり前の歌舞伎の〈女殺油地獄〉でセリフ回しも古典的な上演とほぼ変わらない。なのにそれが倉庫に仮設の殺風景な舞台で演じられて不思議なくらい違和感がない。むしろ何もないぶん近松の芝居が夾雑物なしに刺さってきて、歌舞伎や文楽の通常の舞台で見物するよりずっと凄惨でリアルで気持ち悪い。

これは演出の(出演もした)赤堀雅秋と中村獅童がよく作ったもんだと感心しちゃったよ。獅童もいいが殺される女房を演ずる壱太郎もいい。それから何より獅童の馬鹿息子の両親になる嵐橘三郎と上村吉弥が最高にいい。この二人が殺風景な天王洲の殺風景な倉庫をまるごと浪花へワープさせた。歌舞伎ってのは梨園の外のたくさんの芸達者がいてこそのモンだってことを、この日も知らされた。

上演期間が短く客席数もうんと少ないから仕方ないとは思うんだけど、普段おれたちが見物してる席の何倍もするチケット代が非常に苦しかった。でもまあその分、すごく舞台に近いところからリアルな惨劇を覗き見るような怖さに浸れたから良しとする。

正直言って〈女殺油地獄〉はこれから毎回こういうシチュエーションで見てもいいくらいだと思った(お高くなければ)。

つうことで、おれ的にはここまでの半年、天王洲寺田倉庫の〈女殺油地獄〉が一番の収穫だな。







by god-zi-lla | 2019-06-26 10:39 | 物見遊山十把一絡げ | Comments(2)
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Amazonのプライムビデオに〈Blues Brothers〉があるのに気づいて、すごい久しぶりに見た。土曜日の早朝で奥さんはまだ寝てるから、テレビをつけてヘッドフォンを繋いでテレビ内蔵のAmazonのアプリを起動し、ヴォリュームをグイっと上げて耳が痒くなるくらいの爆音で見た。ヘッドフォンだから音量に遠慮会釈は不要ってもんである。

しかし、いつ以来でしょうかね。本邦公開は81年だっていうからその時見たとしたら38年目ですか。封切り直後かどうかは別として、とにかく20代のなかばに初めて見たのは間違いない。そのあと、テレビで放送されたのも見たような気がするけどよく覚えてない。

なにしろジョン・リー・フッカーなんて全然、当時おれは名前も知らなかったからな。アリーサ・フランクリンのいるダイナーに二人が入る直前の路上で歌ってたブルーズマンを、ただの歌とギターのうまいエキストラのオッサンだと思ってた。まったく無礼千万な話である。映画見る前にちったぁ予習くらいしてらっしゃいな。

かろうじて、画面を見ただけで誰だか分かったミュージシャンはJBとアリーサとレイ・チャールズだけじゃなかったですかね。バンドでギター弾いてんのがスティーヴ・クロッパーだなんてことはずうーと後になって知った。

ジョン・ベルーシのブラザーズ兄が出所して孤児院を訪ね、そこで世話になった黒人のジサマと久しぶりに会って抱き合う、そのジサマがキャブ・キャロウェイだなんてことはなおさら思いもしなかった。

ずうーっと後のほうの、あの有名な白い燕尾服で〈ミニー・ザ・ムーチャー〉を歌い踊るシーンを見て初めて、あーもしかしてこのジサマってあのキャブ・キャロウェイなのか? と、しかも疑問符付きで思ったくらいなもんである。

何故かといえば、おれのアタマん中じゃキャブ・キャロウェイといやあアメリカ黒人音楽史に必ず出てくる「歴史上の人物」なのである。始皇帝や織田信長やアレキサンダー大王が生きてる人だなんて思いもしないのとおんなじである。

だってアレだぜ。キャブ・キャロウェイ楽団といやあ1920年代だか30年代だか禁酒法時代のNYコットンクラブでデューク・エリントン楽団とバンドスタンドを分けあった「スター」つう認識じゃんか。しかも、かたやデューク・エリントンはこの映画を見たころから遡ること7、8年前にはそれなりの年齢になって亡くなってたんだから、おれはてっきりキャブ・キャロウェイもアノ世の人だと思い込んでたのであった。

だから、たしか見終わってから雑誌かなんかの記事で読んで初めて、あーやっぱあのジサマは本物のキャブ・キャロウェイだったんだー、と知ったんじゃあるまいか。

で、さっき調べたところキャロウェイさんてエリントン翁より七つ八つ年下だったのね。

いやまあ、それはともかくとしてだな。久しぶりに見てもこの映画のトンでもなさぶりの価値ってものは少しも減じてませんね。多分アメリカ映画史上初のブラックミュージックの「ミュージカル映画」(しかも、すごいメンツだらけ)なのに主役はよりによって白人のチンピラである。しかも目茶苦茶に暴力的なまでのアクションシーンの連続で、且つその圧倒的な破壊力のアクションに必然性のひとっカケラもない徹底したスラップスティックコメディときたもんだ。なんかもう心底クダラナイくて、そこがすごく面白い。

いやー、これから何度でも繰り返し見たいもんだ。

たしかにアリーサ・フランクリンもJBもキャブ・キャロウェイもジョン・リー・フッカーもたいしたモンだと思います。みんな、短い登場シーンなのにすごい存在感だ。だからもちろん「音楽映画」としてすごく楽しめる。けどね。あらためて感じたこの映画の真骨頂は、たとえばショッピングモールでのハチャメチャなカーチェイスや、たった二人を警察と軍隊と消防の大集団が入り乱れて市役所で追いかけ回す、あのほとんど(つか、まったく)無意味なシーンに精力と予算をつぎ込んでしまうアブナさにあるんだと、あたくしは思いますね。

いやまったく。

それにしてもと今回見終わって思ったんだが、おもな出演者はみーんな死んじゃってんだな。

まあキャブ・キャロウェイ翁は当時すでに老境にあったから仕方ないし(94年に86歳でお亡くなりになったとのこと)、レイ・チャールズもジョン・リー・フッカーもそれなりのお歳ではあったから今世紀初めに亡くなってる。だけど、ジョン・ベルーシはこの映画から何年もたたないうちにあっけなくドラッグで死んでるし(あのニュースには当時結構びっくりした)、JBが亡くなったのは10年くらい前だったか。

そして、狂気の女ストーカー(そんなコトバは当時なかったでしょうが)を演じたキャリー・フィッシャーが3年くらい前に急死して、とうとうアリーサ・フランクリンが去年この世を去ってしまった。それからベーシストのドナルド・ダック・ダンもだいぶ前に亡くなってる。

そういえばアレだったな。当時キャリー・フィッシャーが出演してるのを知らずに見て、あの女優さんて、もしかしてスターウォーズのレイア姫やってる人? と思ったもんである(つまり名前を知らなかった)。

だけどキャリー・フィッシャーがやったあの役(固有名詞を与えられてない)は、ブルース兄弟をバズーカ砲で狙撃したり爆弾仕掛けてビルごと吹っ飛ばしたりして、要所要所で映画の意味不明さをパワーアップさせていくブースターみたいなもんだったな。

こんど、ああいう超クダラなくて偉大な「ミュージカル映画」を見られるのは一体いつのことなのでしょうか。いや、きっともう二度とあんな映画が作られることはないんだろうな。

つうわけで冒頭の写真のレコードはなんだっつうと、直接関係あるってわけでもないんだが当然ブルースブラザーズのアルバムではあるから無関係ってことでもない。まあ、殺人事件の報道かなんかで写真がなんにもないとき新聞とかテレビのニュースで、なーんとなく「桜田門」のビル正面の写真が使われてたりするでしょ。まあ、アレと同じようなモンです。

でもそれもあんまりアレだから触れておきますけど、何年か前にどっかのレコード屋さんのエサ箱から引っこ抜いてきたジョン・ベルーシとダン・エイクロイドのバンド〈Blue Brothers〉の、たしかこれがデビューアルバムなり。

78年か79年あたりのライヴ録音だからもちろん映画よりも前のリリースで、だからここにはJBもアリーサもキャブ・キャロウェイもレイ・チャールズもいません。

スティーヴ・クロッパーもドナルド・ダック・ダンもいるからもちろんバンドはちゃんとしてるんだけど肝心の「ブルース兄弟」がウマいかどうかっつうと、映画見てるぶんには何も気にならないけどレコードだと多少ビミョーなとこがあるよねえ。やっぱ二人ともシロート芸というべきか。いや、それにしちゃあ結構聴かせるぜというべきか。

だけど気合いはスゴい。とくにジョリエット・ジェイク・ブルースことジョン・ベルーシは人生これに賭けてるような勢いで歌い叫び喋くりまくる。ひょっとして架空の人物「ジョリエット・ジェイク・ブルース」に人生賭け過ぎた挙げ句、そっちに生命を吸い取られて死んじゃったんじゃあるまいかと思ったりもするのであった。





Briefcase Full of Blues (ATLANTIC ATL50 556 ドイツ盤)

by god-zi-lla | 2019-06-17 20:31 | 常用レコード絵日記 | Comments(0)
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お久しぶりでございます。

こないだラジオ聴いてたら、こまっしゃくれた風でヘンに歌のうまい小娘が、

はい一丁あがり、ツルツルツル、毎度ありぃ

なんてラーメンのノベルティソングみたいなみょうにユルいカントリーソングみたいな曲を歌ってる。バックにはチャルメラとペダルスティールが聞こえる。が、ヘンに和風つうか中国風つうかガイジンの耳に聞こえた日本の歌のようでもあったり。

と、聴いてるとそのうち歌詞が英語になった。うしろ半分は英語詞の歌でこれがまたウマい。なんだこの歌とシンガーは。どこの国の娘だ。英語はネイティヴか。ちょっと古めかしい感じはするけど日本の曲じゃない感じがする。

すると、これが〈チャルメラそば屋〉つう曲で、歌ってるのは美空ひばりで昭和28年(1953年)の録音だって言うじゃんか。はあー、なんすかそれ。

昭和28年といえば16歳、歌のウマすぎる小生意気な娘は美空ひばりなんであった。

ひばりのアルバムつうと、いっとき(もう10年以上前かな)スタンダードほか欧米の有名曲を歌ったトラックばかりを集めたコンピレーションを繰り返し聴いてたことがあったんだけど、いやあ、この英語の原曲を替え歌にしたような素っ頓狂な歌にはなんか別のパワーがあって、ひょっとしたらこっちのほうが魅力的な気がする。

で、この曲ってどこにあるかと探してみるとネット上にもあるし何種類かの美空ひばりのコンピレーションCDにもあるってことがわかったんだが(原盤はSPらしい)、どうせならこの際こういう曲をもっと沢山聴いてみたいと思って探したら〈ミソラヒバリ リズム歌謡を歌う 1949-1967〉って写真の2枚組があったんでした。おー、いいじゃんリズム歌謡。

手に入れて早速ぶ厚いブックレットをめくってみたところ、〈チャルメラそば屋〉は作詞ボビー・ ノートン/奥山靉、作曲ボビー・ ノートンとなっている。あーやっぱりこれはアメリカの原曲に日本語詞を付けたのかと最初思ったんだが、それにしちゃあ作詞が日本人と併記されてる。これはどういうことなんだろか。

このブックレットには湯浅学のチカラの入った解説が付いてるんだが、「ひばりのリズム歌謡」についての総論で楽曲解説はない。仕方ないからネットであちこち覗いてみたところ、どうもこのボビー・ノートンて人は東京に進駐してた米占領軍の兵隊だというんだな。そのノートン二等兵だか軍曹だかが東京の街の屋台のラーメンを気に入って歌にしたのをレコード会社が見つけて日本語の詞も足してひばりに歌わせたらしい。いやーこんなの歌ってたんだ。

しかしなんだなあ。スタンダード歌ってるのも十分たいしたモンだ、さすがひばりは違うと思いますけど、ある意味こっちのほうがもっとすごい気がする。










CD2枚で50曲、リアルタイムで知ってたのは最後のほうに入ってる〈真っ赤な太陽〉のみ。そうでなくても知ってる曲といえば〈お祭りマンボ〉とか〈車屋さん〉とか数曲しかない。そもそも「リズム歌謡」と銘打ってるんですから〈悲しい酒〉とか〈川の流れのように〉とか〈柔〉とかそういう系はない。

初録音だっていう1949年の〈河童ブギウギ〉のこまっちゃくれぶりもすごいが、52年〈春のサンバ〉も可憐だ(ぜんぜんサンバじゃないけど)。

だけど、その可憐な〈春のサンバ〉の翌年録音のチャルメラのふてぶてしいような歌い出しと日本語詞も英語詞も当たり前のように歌ってしまう変幻自在な感じはなんなんだ。

その次のトラックは53年〈日和下駄〉で和風の疾走感。

これって、しかし当時は全部バックバンドとスタジオで一発録音してんだよな。けっこう大編成のオーケストラとか、ギターとペダルスティールとチャルメラのバンドとか、ブラスとパーカッションのラテンバンドとか。そういうのに当たり前のように乗っかって当たり前のように平然と歌ってる。

いや、キリがないんでアレですけど、うひゃあーっと呆然自失してしまったのは〈ロカビリー剣法〉58年、ロック&ロールに時代劇が乗っかっちまってる。かと思えばアフロキューバンで江戸の女怪盗を歌う〈ふり袖小僧〉59年、信じられない。

それから原信夫とシャープス&フラッツの壮麗なビッグバンドジャズをバックにコブシ効かせて歌う〈相馬盆唄〉62年。

いやーもうそんなんばっかし。

なんかクセになりそう(つか、もうなってる)。





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by god-zi-lla | 2019-06-12 16:44 | 常用レコード絵日記 | Comments(0)
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新しい家財道具を入れたら本並べて写真撮る壁がなくなってしまった。

どうでもいいんだけどね。左から。

国体論 菊と星条旗 白井聡(集英社新書)
都市空間の明治維新 江戸から東京への大転換 松山惠(ちくま新書)
星夜航行 上・下 飯嶋和一(新潮社)

前の天皇が退位して新しい天皇が即位したちょうどその時期にこれを読んだのはたまたまだが、考えてみりゃ買ったのは本が出てすぐの去年でそのまま置きっぱなしにしてたのを手に取る気になったってことは、たまたまでもなかったのかもしれない。

で読み終わったとこにあの大男が海を越えてやってきて、こっちの浮かれポンチが同じ色のネクタイ締めて横に並んでぶんぶんシッポ振るのを見てしまったのもたまたまだったのか。

その、シッポぶんぶんの根っこにあるものを論じ痛烈な批判を繰り出した本なり。ちょっと強引なところもある気がするが、もっともだもっともだと首肯しつつも苦々しい読後感。

江戸はどう東京に変貌したのか、じゃなくて維新政府はどうやって江戸をぶっ壊し東京を作ったのか。なるほど江戸の広大な「武家地」は私有財産じゃなかったわけね。あれみんな幕府が公有地を大名やら幕臣やらに貸し与えてたのね。そしてそれを維新政府が没収したわけね。なるほどなるほど。それを払い下げて「街」に変えていくわけね。そうすると私有財産になるわけね(いろいろ後ろ暗いこともありつつ)。そうすると固定資産税(地租)も取れるわけね。なるほどなるほどなるほど。

「明治150年」を礼賛一色で塗りつぶそうとする浮かれポンチ政府(長州系)に、チョット待ったと一次資料を駆使して異を唱える緻密な論考である。

飯嶋和一の上下1100頁がよりによって後輩の「耳で読みたい」リストにアップされ、数か月誰も引き受けない。そりゃそうだよな。中身も重たいが物理的にも重たい。2冊で1.3キログラムもある。外出時に持って出られない(こともないが、持って出たくないよ)、寝っ転がって読んでて、ウッカリ寝ちゃって本が顔に落下したりしたら命にかかわるかもしれない。

だけど個人的に読もうかどうしようかと思ってたとこだったから、じゃあおれが音読引き受けると手を挙げた。そしてとりあえず「黙読」では読み終えたが、音読のほうはいまだ下巻の350頁あたり。スタートしたのは音声データのタイムスタンプ見ると3月6日だ。この調子だと6月いっぱいかかりそうな気がする。

自分の「読書」として読むのとは別に、音読のために1回分の範囲(だいたい15〜20頁)を下読みして漢字の読みやなどをチェックしないとシロートはとても音読なんかできない。それからMacの「ボイスメモ」を起動しアマゾンで買った安いUSBピンマイクをセットして読む。

時間にして1回分の完成データは30〜45分くらいになりますけど、なにしろシロートだから滑舌悪いわ読み間違えるわで録音に費やす時間はその倍くらい。まだまだ先は長いぞ。あと200頁ちょい。

秀吉の愚劣な朝鮮侵略が上巻450頁付近から始まって最後まで。そればっかりではないがそれが中心。物語の主人公(徳川三郎信康の遺臣)はいるが描かれるのは、日本の武士と朝鮮および明の軍人のウンザリするほどの愚行の山と、それに痛めつけられ続ける日本と朝鮮の庶民の困窮と悲惨。

なるほど秀吉の朝鮮侵略とはこういうことだったのかと(そのことが秀吉死後の日本に何を残したのかも含め)目からウロコが何十枚も落ちるが、もちろん飯嶋和一作品らしく徹頭徹尾暗くて重く、明るいエピソードなんて皆無に近い悲劇ですから、それを音読したりして何度も読むんだから結構苦しい。

先般同じ音読のお題で〈宇喜多の楽土〉つうほぼ同時代を描いた小説を読んでそれなりに面白いと思いましたけど、飯嶋和一に比べりゃおセンチなメロドラマだったな。

それから、さすがに間違ってもエヌエッチケーの大河ドラマの原作になんかなりっこないから、そこらへんとっても結構なことですね。

by god-zi-lla | 2019-06-01 12:31 | 本はココロのゴハンかも | Comments(4)