神はどーだっていいとこに宿る


by god-zi-lla
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むかし、ときどき行ってた定食屋のおばちゃん。

お茶もう一杯どう? 
出がらしモンジロウだけど。

東京は2年連続木枯らし吹かぬまま師走である。
しかも今日は午前中から激しい雨と風。なんなのさこれって。

台湾生まれ 日本語育ち 温又柔(白水社Ubooks)
妹背山婦女庭訓 魂結び 大島真寿美(文藝春秋)
カササギ殺人事件 上下 アンソニー・ホロヴィッツ/山田蘭・訳(創元推理文庫)
新訳 説経節小栗判官/しんとく丸/山椒大夫 伊藤比呂美(平凡社)
コルシア書店の仲間たち 須賀敦子(文春文庫)
ヨーロッパ退屈日記 伊丹十三(新潮文庫)
熱帯 森見登美彦(文藝春秋)古本


なんでまた突然「説経節」なのかってば、せんだって読んだ津野海太郎〈最後の読書〉に出てきてガゼン興味を持ったんである。どういう文脈で取り上げてたのかもう全然覚えてないけど(現代作家による古典の翻訳がどーたらっつう話だっけかな)、なかで少しだけ伊藤比呂美が現代語訳した「小栗判官」が引用されててさ。

なんつうか、あくまで語り物を現代の、つか伊藤比呂美のコトバに置き換えて語り直していく感じが読んでて気持ちいい。そこんとこが一番アレだったな。

 その胸札(むなふだ)を見てみると、なんとそこには閻魔大王さまのご直筆で、「この者を藤沢のお上人、明堂聖の一のお弟子に渡し申す。熊野本宮湯の峯に入れてやってくだされい。熊野本宮湯の峯に入れてやってくだされば、浄土から薬の湯を沸かし上げよう」と書かれてあり、どんと御判が押されてあります。ああ、ありがたいと、お上人も、その胸札にこう書き添えました。
「一引き引けば、千僧供養。二引き引けば、万僧供養」
 そして土車(つちぐるま)を作り、餓鬼阿弥を乗せました。女綱男綱(めづなおづな)を打ちつけて、まずお上人本人が、車の手縄(てなわ)にすがりつき、えいさらえいと、引いていきました。

とかね。

須賀敦子は初めて読んだ。読書会のお題にならなきゃ、きっと読まないままだったろうな。

読書会終わったので、そのとき言った感想を思い出して書き留めとく。

著者のほかの本を読んでる人には周知のことなのかもしれないけど、著者の夫の突然の死をはさんでその前後を語っているのに、しかもその夫が「コルシア書店」運営の重要な中心人物の一人でもあるのに、ほとんどその夫に触れていない。

夫の死が著者にもたらした(あるいは奪った)ものは極めて大きかったに違いないだろうし、「コルシア書店」も大打撃を受けてその行く末に大きな変化をもたらしたはずなのに、そういうことにほとぼ触れていないのはあくまでこのエッセイがコルシア書店の「仲間たち」を主題にしたものであって、夫は仲間じゃなくてあくまで「伴侶」、そして描くのは「仲間」であってコルシア書店そのものではないということだったんだろうか。

そういうことは当然著者の意図したことに(これだけの美しい日本語散文を書く人なんだから)違いないとは思うんだけど、読書会のお題としてこれ1冊だけ読んで、なんか感想言えと言われたら、そこんとこはやっぱ読んでてすごく不自然な感じがしますねって言わずに済ますわけにはいかないよ。

伊丹十三が翻訳したマイク・マグレディ〈主夫と生活〉のことを以前papaさんに聞いて、読んでみようと思ってポチっとした紀伊國屋書店のサイトに「関連書籍」だかなんかで出てきたのをつい買っちまい、結局こっちを先に読んでしまったんであった。

おれ、若いころいっぺん読んでるね。たぶん70年代に。

「カッペリーニ」というパスタはちょいとコシということじゃ劣るけども、冷や麦の代用品として食えないこともない、なんてことをこの本のなかで伊丹十三は書いている。

そうそうたしかにアレは使えますぜ。めんつゆがあればなんとかいける。やってみましたアタクシも。でも伊丹さんアレは冷や麦つうよりかソーメンに近いんじゃあるまいか、麺の細さとしたら。

なんてちょっとココロのなかで突っ込みを入れながら読んでたりするわけだが、初めてこれを読んだ70年代、カッペリーニなんてパスタはもちろん見たこともなかったから多分まるで珍紛漢だったろうな。試してみるどころか想像すらできない。

リアリティのなさでいえば、初めのほうに出てきて(今回ここにさしかかって、あ、これ読んだことあると気づいたくらい)きわめて印象的なエピソード、象牙色のジャギュアの納車のハナシよりある意味さらに現実離れしてるといえるんじゃあるまいか。少なくともおれが読んだ70年代、ジャギュアってクルマを東京で見ることは出来たんだから、カッペリーニよりもまだリアル。

このエッセイで伊丹十三はヨーロッパ暮らしのことを書いてるわけだ。あちらこちらのヨーロッパのあれやこれやを、日本のあれやこれやと引き比べている。具体的に引き比べてたり、暗に日本じゃこうはいかない的な書き方だったりするんだけどもそれはこのエッセイが現在進行形だった1960年代の日本と引き比べてるわけだ。あー60年代のニッポンとニッポン人つのはそうだったんだな。

読み始めてふっと思い出したのが川島雄三監督の〈幕末太陽伝〉の冒頭、「現在の品川」つうナレーションとともに現れる八ツ山橋の鉄橋で、下は国鉄の線路という映像なのだった。

そこで映し出された「現在の品川」つうのは1956年前後のもので(映画の封切りは57年)、幕末太陽伝をいま見る自分にとってそれは「現在」じゃなくって、「おれが生まれたころの品川」である。

そういう面白さってのが、〈ヨーロッパ退屈日記〉をいま読むことによって生まれてきてるんだが、それでもなおかつジャギュアの納車のハナシなんて、おれなんかには今も昔も変わらず「へぇー」である。

それにしてもすごい才能だったんだなあ。晩年、宮本信子専属映画監督みたいになっちゃったのは、ちょっともったいなかったんじゃあるまいか。

最後の本はこれも音読のリストに長いこと残ってたので(ツカがあるので敬遠されたみたい)、初見で音読1回のみ読んだ。

とくにあれこれ言うような小説でもない。カラフルな書き割りみたいな印象。






by god-zi-lla | 2019-12-02 18:45 | 本はココロのゴハンかも | Comments(2)
この2か月で読んだ本の備忘録(だらだら長くなってきたから上下に分けるぞ)の上_d0027243_12595750.jpg



ところで、ニッパーつう名前は「すぐ噛む」からつけたんだってね。
なるほど工具の「ニッパー」と同じ綴りだ。

殊勝そうなフリして蓄音機覗き込んでるけどロクな犬じゃねえな、オマエ。

左から。

台湾生まれ 日本語育ち 温又柔(白水社Ubooks)
妹背山婦女庭訓 魂結び 大島真寿美(文藝春秋)
カササギ殺人事件 上下 アンソニー・ホロヴィッツ/山田蘭・訳(創元推理文庫)
新訳 説経節小栗判官/しんとく丸/山椒大夫 伊藤比呂美(平凡社)
コルシア書店の仲間たち 須賀敦子(文春文庫)
ヨーロッパ退屈日記 伊丹十三(新潮文庫)
熱帯 森見登美彦(文藝春秋)古本

温又柔(おんゆうじゅう)は台湾人の両親の転勤で3歳のとき台北から東京に移住、以来ずっと日本に暮らす作家で、〈まん中の子どもたち〉が芥川賞候補になったのを審査員の某老大家が酷評したのを知って読んでみたとろ、これがすごく面白かった。

なんでその老大家が酷評したから読んでみたかっつえば、直前老大家が書いた小説が読書会のお題になり読んだところコイツが死ぬほどつまらなかったので、こんなツマラナイ小説を書く小説家に酷評されるくらいだったらきっと面白いに違いないと思って読んだところ案の定なのだった。

もともと福建あたりの言葉と同系の「台湾語」が主要な言語だった台湾が日清戦争で日本に割譲され日本語を「国語」として強制される。台湾語は貶められ教育は日本語で行われる。それは敗戦で日本が去り国共内戦で敗走した国民党軍が台湾を支配するまで続く。その50年間に育った子どもたちは日本語と台湾語の読み書きができる。

蒋介石の国民党は当然ながら日本語を禁止し中国語を「国語」として強制する。日本語は排除され台湾語はやはり貶められ教育は中国語で行われる。「台湾語と日本語」の親から生まれた子どもたちは「中国語と台湾語」で暮らす。

「中国語と台湾語」の両親から生まれた著者は3歳まで中国語と台湾語の混ざったコトバを話したが、東京に移って圧倒的な日本語のなかで暮らし育つ。著者は次第に台湾語も中国語も忘れていく。両親は、とくに母は台湾語と中国語と日本語がごちゃ混ぜになったコトバを話し、著者は若い頃それを嫌ったが今ではそれを「ママ語」と呼んで深く愛する。

台湾に「帰国」すると祖父母の世代にあたる親類縁者と著者は日本語で語り合ってなんの不自由もなく意思疎通できるが、イトコたちとはうまくコミュニケーションが取れない(聞き取れ理解できるが日本語でしかリアクションできない)。

自分のアイデンティティのことというよりも、自分にとって「母語」とは何かという問い。台湾という「母国」を翻弄してきた「国語」についての問い。コトバによるコミュニケーションの本質とは何なのかという問い。終始一貫そういうことについての想い出・考察・評論。

台湾で出版された中国語版のタイトルがオビにある〈我住在日語〉なんだそうだ。
わたしは日本語に住んでいます。

妹背山婦女庭訓の作者、近松半二ってのは近松門左衛門とどういうカンケイがあるのかと思ったら、憧れて名乗りましたということなんだってね。知りませんでした。

その人形芝居の狂言作者近松半二の生涯がほとんど半分くらい上方言葉で書かれてて、それがまたいいんですね。ふっくらとした語り口の時代小説であり一種の評伝のようでもあり、教養小説といってもよさそうでファンタジーのようでもある。 

近松半二は享保から天明にかけて、つまり18世紀半ばあたりに活躍した人だけども、すでにこのころから人形浄瑠璃は歌舞伎芝居に人気を奪われ斜陽化してくんだね。そのへんもこの小説のキモのひとつかもしれない。浄瑠璃の人気芝居を次々と生身の役者が芝居に置き換えて大受けする。なんか黒人のブルーズを横取りして白人がロックで大もうけみたいなことをちょっと思い出したりもする。

この小説、れいの音読のリクエストに上がってきてて、つい手を挙げちまったんだが、「上方生まれ 関東育ち」のおれにちゃんと読めるのかしら。ちいとばかし後悔中なり。

〈カササギ殺人事件〉もその音読のリクエストのリストに上がりっぱなしで誰も読み手がないまま半年以上。大冊、上下本はなかなか引き受け手が出てこない。

日常生活では安易なところを積極的に歩み続けるのを身上にするおれなのに、この音読は積極的に困難なところに突っ込んでいくことにしてたりしてね。まあ〈渦〉に手を挙げたのもそうだ。以前は飯嶋和一〈星夜航行〉上下1200頁でヘロヘロになった。

だけど、どれも読んでみたい本ではあったから、まあいいのよ。でこの2018年のミステリー本の各種「第1位」になったと評判の推理小説も一度読了したあと現在、音読中。

いっぺん読み終わってすぐに再読してるわけだ。そしたらアレだよ。あー、これって「伏線」だったんじゃん。全然気づいてませんでした。あらら、ここんとこ読み飛ばしてたかしらん。つう箇所が続出するんだよ。なんとまあ、おれって不注意で大ざっぱな読者なんでしょうか。推理小説にはまるで向いてないよな。

と思うんだけど、たしかにこれはよく出来た推理小説ですね。

「入れ子」構造になっている。それは読み始めればすぐわかるからネタバレでもなんでもない。どう「入れ子」にしてあるのかが面白い。しかもその「ガワ」も「ミ」もそれぞれに犯人当ての推理小説として真っ当に成立してるもんだから、いわゆるひとつの「一粒で二度美味しい」。

おれ推理小説あんまり読まないから知らなかったんですけど、犯人当ての推理小説のことを「フーダニット」っていうんだってね。何かと思えばWho Done It らしい。なーるほど。解説読んでひとつ勉強しました。

けど、なんかちょっと犯行の動機が。とくに「ガワ」のほう。



to be continued





by god-zi-lla | 2019-12-01 14:51 | 本はココロのゴハンかも | Comments(0)
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本の前にジャマものがいるのは許しておくれ。どけるのがメンド臭くってね。
これもトシのせいですかね。

左から。

セイバーメトリクスの落とし穴 マネー・ボールを超える野球論 お股ニキ(@omatacom) (光文社新書)
RUGBY日本代表に捧ぐ 大野均(廣済堂出版)
生まれ変わり ケン・リュウ/古沢嘉通ほか・訳(早川書房)
兼好法師 徒然草に記されなかった真実 小川剛生(中公新書)
失われた近代を求めて 上・下 橋本治(朝日選書)
たとへば君 四十年の恋歌 河野裕子・永田和宏(文春文庫)

この野球の本は面白いぜと息子が勧めるので読んでみたが、なるほど最先端(つまりMLBと一部のNPB)で繰り広げられてる野球つうのはこういうセオリーやメソッドによって動いてるのかと目からウロコが落ちる。なにしろこっちは野球中継見てツーシームだのフォーシームだの言われても珍紛漢でしたから。

そして著者はMLBで主流になっている〈セイバーメトリクス〉もけっして万能でないと指摘する。なーるほど、最先端のベースボールってのはここまで来てんのかと知れば、高校野球を筆頭に日本の少年少女アマチュア野球の投球数制限議論がどんくらい遅れてるかってのも実感できますね(それについてはほんのちょっと触れてるだけだけど)。

大野均は2015年ワールドカップのメンバーで歴代日本代表最多の98キャップを保持する東芝の現役ロック41歳。しかもラグビーのキャリアは大学から。加えてそのチームは地方大学リーグの2部。それだけでもすごいよね。

ケン・リュウの短篇集を読むのは3冊目かな。今回は新作が出たのを知ってすぐ買った。

数篇ある(ということは作家の興味の中心がこのあたりだってことなのか)人間の意識(つか脳の中身っていうか)を「アップロード」して肉体を滅してしまう系の作品を読んでると、なんちゅうかすごく落ち着かない気持ちになってしまうのはおれが古いニンゲンだからでしょうか。

ちなみにおれがそういうテーマのSFに初めて接したのは2015年の映画〈チャッピー〉だった。だけど、そういうことが現実になる時代がホントに来るのか、それともそんなものはたんにカタチを変えた不老不死願望だと考えればいいのか。そこんとこが、なんか落ち着かないんだよな。

それにしても何度か書いてますけど、現代のアジア系USA作家の作品にはそこはかとない滋味があって好きなんだよ。

「吉田兼好」は吉田兼倶によるデッチ上げであるというのが著者の説で、それを立証するのがこの本の大きな柱のひとつであり、それを含めて兼好法師が生きた時代はどのような時代で、彼はどのように生きたのかを探る論考。

兼好法師はあくまで兼好法師で、ひょっとして「卜部兼好」だったかもしれないが「吉田兼好」であったわけがないという。学界のなかでこの説がどういう位置を占めてるのか知りませんけどシロートが読んでるかぎりは説得力大きい。

それはいいんだけど読みにくい本でね。古典籍の原文引用はそういうモンだから別に気にしないけど、著者の書きぶりからは一般読者に広く読んでもらいたいという気持ちは見えない。

この本は、音読のリクエストに上がってたのでまず黙読のまま通読し、それから音読のためメモを取りながら下読みをしてから音読したんだけど(ようするに都合3回は読んだ)、古典の引用部分より著者の文章を音読するほうがよっぽど難儀だった(徒然草は当然のことながら、その他の古文書も声に出して読んでみるとかなり気持ちいいんですね)。日本の古典文学を代表する名作の研究者が名文家でなきゃイカンとまでは言わないにしてもだ。

橋本治の本を読むと、なるほどそんなふうに思ったことは一度もなかったけど、そういわれてみればたしかにまったくそのとおりかもしれない感心してしまうのが常であって、これもまたそういう本のひとつなり。

橋本治が亡くなってしばらくしてから本屋でこれをパラパラとめくっていると、なんだか田山花袋の「蒲団」について論じている章がある。「日本の自然主義文学の代表作」なんていわれて有名なくせに、なんじゃこりゃあというしかない小説を橋本治はどう論じてるのか興味津々で買ってみた。

この本で橋本治が取り上げてるのは田山花袋のほか、夏目漱石、二葉亭四迷、北村透谷、国木田独歩、島崎藤村、森鷗外、正岡子規、幸田露伴というような人たちで、つまり書名にある「近代」とは「日本の近代文学」のことである。まあいろいろありますが、読み終えてとくに、あー橋本治がこういうふうに書いてるんだから一度ちゃんと読んでみなきゃと強く思ったのが幸田露伴の〈五重塔〉なのであった。

〈たとへば君〉は読書会のお題だった。

なんつうか、歌人とか詩人とかって、どうしてここまでコトバのために身を削るのかと、ボンヤリと生きてるおれなんかには何もコトバがない。

夫婦して歌人で、「夫婦の会話」ってのも当然ある。これはまあ夫婦の会話だからどちらのお宅だって「夫婦の会話」つう範疇を越えてくるものはない。つうか、それを越えてくると夫婦ってのは多分崩壊するんだろうと思う。だからなんか、寸止め的な何かをしょっちゅう発動するわけだ。

いっぽうで歌人と歌人つう、コトバのために身もイノチも削ることを厭わない同士の(主として詠まれる歌による)対話となると、寸止め的な何かなんてない。夫婦であり二人の先鋭な歌人でもある。そのふたつが同時にあるって、おれなんかには壮絶すぎて想像もできない。

そういうのの片鱗がこの事後的に編まれた「相聞歌集」に垣間見える。

おしまいのところで、ちょっと、泣いた。





by god-zi-lla | 2019-10-01 23:27 | 本はココロのゴハンかも | Comments(0)
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ふつうに暑い月末である。

アート・ネヴィルが今月22日に亡くなったんだそうだ。81歳。ネヴィル・ブラザーズとして2008年に来日したときはすでに杖をついてステージに上がっていて、2014年六本木で「ファンキー・ミーターズ」のライヴ見たときにはかなり腰が辛そうでB-3の前にちゃんとした姿勢で座ることが出来ず、ローディーの若者に後ろから背中を支えられるようにして演奏してたのを思い出す。

ひょっとしてこれが見納めかなと思わないでもなかったが、その通りになってしまった。残念。

しかし、そんなふうだったけど演奏はさすがニューオーリンズ・ファンクのお父さんだぜっていう、適当にユルくて適当にタイトなサイコーに楽しいプレイだったな。

エアロンとシリルはうんと長生きしてくれ。

謹んで冥福を祈ります。

左から。

ひよこ太陽 田中慎弥(新潮社)
箱の中の天皇 赤坂真理(河出書房新社)
最後の読書 津野海太郎(新潮社)

それから写真ありませんけど

海とジイ 藤岡陽子(小学館 図書館返却済み)

赤坂真理は読もうと思って買っておいたら音読のウォントリストに上がってきたので声に出して読み、津野海太郎は買って読もうと思ってたら次回読書会のお題になったので買ってきて読み、藤岡陽子は飯嶋和一の1100頁を音読してヘロヘロになったので下読みも下調べもせず気楽に音読できそうなのをリストから拾ってみた。

田中慎弥と赤坂真理は相当ヘンテコである。おれはどっちかつうと小説はヘンテコなほうが好みだから、どっちも楽しく読みましたけどヒトに勧めるかってばそれは各自勝手にしてくださいとしか言いようがない。

どっちも現実(みたいなところ)と現実じゃない(ように思える)ところを行ったり来たりする。それがこの二人の作風なのかどうかは全然知らないけど、その行ったり来たりが面白い。いや、世間さま的に面白いっつうのとはちょっと(いや、だいぶん)違うかもしれないけど、おれ的には面白い。

その点、藤岡陽子はヘンテコなとこはなにもない。なんていいますか、感動をありがとう! とかすぐに言いそうな人向けな感じ。まあ音読のウォントリストに上がってたから読んだんだけど、これをリストに上げた当人はこういう小説を面白いと思ったのかなって、今度きいてみようかな。

まあプロの編集者だから職業的興味から発したのかもしれない。おれなんかみたいに好きな本を好き勝手に読むのとは、そのへん全然ちがうんでしょうからね。

津野海太郎はここに書くと読書会のときに喋るネタがなくなるので書かないが、おれは大いに楽しんで読んだ。

著者の津野海太郎は1938年生まれ。アート・ネヴィルよりひとつ年下だな。装釘が平野甲賀でどう見ても晶文社の本にしか見えないけど新潮社刊。

ところで音読はいま中公新書〈兼好法師〉に取りかかってる。新書だけど古典籍の引用だらけで、このへんの教養が絶対的に足らないおれは悪戦苦闘中(ようするに声に出して読むまでがタイヘン)。

正直いって、自分の読書どころじゃないよ。



by god-zi-lla | 2019-07-31 13:00 | 本はココロのゴハンかも | Comments(2)
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新しい家財道具を入れたら本並べて写真撮る壁がなくなってしまった。

どうでもいいんだけどね。左から。

国体論 菊と星条旗 白井聡(集英社新書)
都市空間の明治維新 江戸から東京への大転換 松山惠(ちくま新書)
星夜航行 上・下 飯嶋和一(新潮社)

前の天皇が退位して新しい天皇が即位したちょうどその時期にこれを読んだのはたまたまだが、考えてみりゃ買ったのは本が出てすぐの去年でそのまま置きっぱなしにしてたのを手に取る気になったってことは、たまたまでもなかったのかもしれない。

で読み終わったとこにあの大男が海を越えてやってきて、こっちの浮かれポンチが同じ色のネクタイ締めて横に並んでぶんぶんシッポ振るのを見てしまったのもたまたまだったのか。

その、シッポぶんぶんの根っこにあるものを論じ痛烈な批判を繰り出した本なり。ちょっと強引なところもある気がするが、もっともだもっともだと首肯しつつも苦々しい読後感。

江戸はどう東京に変貌したのか、じゃなくて維新政府はどうやって江戸をぶっ壊し東京を作ったのか。なるほど江戸の広大な「武家地」は私有財産じゃなかったわけね。あれみんな幕府が公有地を大名やら幕臣やらに貸し与えてたのね。そしてそれを維新政府が没収したわけね。なるほどなるほど。それを払い下げて「街」に変えていくわけね。そうすると私有財産になるわけね(いろいろ後ろ暗いこともありつつ)。そうすると固定資産税(地租)も取れるわけね。なるほどなるほどなるほど。

「明治150年」を礼賛一色で塗りつぶそうとする浮かれポンチ政府(長州系)に、チョット待ったと一次資料を駆使して異を唱える緻密な論考である。

飯嶋和一の上下1100頁がよりによって後輩の「耳で読みたい」リストにアップされ、数か月誰も引き受けない。そりゃそうだよな。中身も重たいが物理的にも重たい。2冊で1.3キログラムもある。外出時に持って出られない(こともないが、持って出たくないよ)、寝っ転がって読んでて、ウッカリ寝ちゃって本が顔に落下したりしたら命にかかわるかもしれない。

だけど個人的に読もうかどうしようかと思ってたとこだったから、じゃあおれが音読引き受けると手を挙げた。そしてとりあえず「黙読」では読み終えたが、音読のほうはいまだ下巻の350頁あたり。スタートしたのは音声データのタイムスタンプ見ると3月6日だ。この調子だと6月いっぱいかかりそうな気がする。

自分の「読書」として読むのとは別に、音読のために1回分の範囲(だいたい15〜20頁)を下読みして漢字の読みやなどをチェックしないとシロートはとても音読なんかできない。それからMacの「ボイスメモ」を起動しアマゾンで買った安いUSBピンマイクをセットして読む。

時間にして1回分の完成データは30〜45分くらいになりますけど、なにしろシロートだから滑舌悪いわ読み間違えるわで録音に費やす時間はその倍くらい。まだまだ先は長いぞ。あと200頁ちょい。

秀吉の愚劣な朝鮮侵略が上巻450頁付近から始まって最後まで。そればっかりではないがそれが中心。物語の主人公(徳川三郎信康の遺臣)はいるが描かれるのは、日本の武士と朝鮮および明の軍人のウンザリするほどの愚行の山と、それに痛めつけられ続ける日本と朝鮮の庶民の困窮と悲惨。

なるほど秀吉の朝鮮侵略とはこういうことだったのかと(そのことが秀吉死後の日本に何を残したのかも含め)目からウロコが何十枚も落ちるが、もちろん飯嶋和一作品らしく徹頭徹尾暗くて重く、明るいエピソードなんて皆無に近い悲劇ですから、それを音読したりして何度も読むんだから結構苦しい。

先般同じ音読のお題で〈宇喜多の楽土〉つうほぼ同時代を描いた小説を読んでそれなりに面白いと思いましたけど、飯嶋和一に比べりゃおセンチなメロドラマだったな。

それから、さすがに間違ってもエヌエッチケーの大河ドラマの原作になんかなりっこないから、そこらへんとっても結構なことですね。

by god-zi-lla | 2019-06-01 12:31 | 本はココロのゴハンかも | Comments(4)
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そういえば3月31日にけっこうな雪の降った年があったよね。今から10年ちょい前くらい。あろうことかあの日箱根山中を目指していたわれら家族。

左から。

小説 阿佐田哲也 色川武大(小学館P+D Books)
唯幻論始末記 わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか 岸田秀(いそっぷ社)
劇画漂流 上・下 辰巳ヨシヒロ(講談社漫画文庫)
音楽放浪記 日本之巻 片山杜秀(ちくま文庫)
レコード・コレクター紳士録2 大鷹俊一(ミュージック・マガジン社)
辺境の路地へ 上原善広(河出書房新社)
国語学者 大野晋の生涯 孤高 川村二郎(集英社文庫)
白い孤影 ヨコハマ メリー 壇原照和(ちくま文庫)
文字渦 円城塔(新潮社)

おれは博打ずきじゃないし当然麻雀狂でもないから阿佐田哲也の小説に興味もなかったので〈麻雀放浪記〉も読んでない。ところが色川武大の小説にはすごく心惹かれるところがあるから見つければ手に取って読む。すごく心惹かれる色川武大が興味のない阿佐田哲也を書く。それを読む。もし興味のない阿佐田哲也が、すごく心惹かれる色川武大のことを書いたらおれは読んだか。

きっと読んだろうな。

30年、いやもっと前かな。〈ものぐさ精神分析〉と書名についた本を何冊も面白くて読んだ。それが「正しい」か「正しくない」かってことに興味はないんだけど、たしかにニンゲンについてのある部分がそれで説明のつくような気がして、そういうふうに見るのはとても面白いと思ってた。

その著者の回顧エッセイのようなものだが、なるほどそういう人かというのと、トシ取ったからなのかというのと、もともと大ざっぱなわけ? というがといろいろ。

だから振り返って、あの頃読んだあれはやっぱりと思い直すというようなことはひとつもない。

片岡義男が〈珈琲が呼ぶ〉で辰巳のこの作品について、とくに昭和20年代後半から30年代前半の「喫茶店」について描写した部分を中心に据えながらかなり深く触れてたのが気になってて、ようやく読んでみた。

辰巳ヨシヒロが大阪から出てきて住んだ東京都北多摩郡国分寺町に、ちょうど辰巳本人が文京区白山へ転居するのと入れ替わりくらいの時期におれたち家族は大阪から出てきて住んだ。昭和30年代のまん中くらいの時期だ。

おれは少年マガジンと少年サンデーと少年キングで育ったクチだから貸本漫画の世界についてはほとんど知らないけど、ごくたまにまだわずかに残っていた貸本屋へ行って小銭を払い店先でマンガを何冊か読んだことがある。

子供心にも貸本屋で読むマンガとマガジンやサンデーで読むマンガには間違いなく別世界な感じがあり、あの感じはなるほどこのあたりなのかという、それがつまり子どもの専有物だったマンガを大人の世界に引っぱり出そうとする辰巳の造語「劇画」なんだったんだな。

日本政治思想史関係の著書にくらべてなんとなく大ざっぱで「放談調」なのは音楽雑誌の連載だったせいなのか。この本の原著でサントリー学芸賞を取ってるというのでつい思い出してしまったのが井上章一の本で、しまいまで読んで「解説」のところまで来たらその井上章一が筆者なので少し驚いた。

レコード・コレクターズ誌の連載はいまも続いていて毎月読んでるんだけど、ずっと以前は毎号読んでたわけじゃなかったから、連載の最初のほうをまとめた「正編」が出てから20年、読みたいのに続きがいっこうに出ないところをみると売れなかったのかと諦めて忘れてたら突然「2」が出た。なんなんですかこれは。でもまあメデタイ。

いやー、それにしてもおれはコレクターじゃなくて良かったよ。コレクターは自分がなるものじゃなくて、ハタにいて見たり読んだりするのが面白い。

なんて、こんなブログにときどき目を通してくだすってる方のなかにもコレクターが何人かいらっしゃるのを承知で申し上げていいものか(って、もう言ってるじゃん)。

上原善広は旅のエッセイ集といえばそうですけど、ねちゃっと湿気が多く粘液質でニンゲンくさい(しかもかなりクサイ)のだけが並んでます。あとがきを読んでみると、それはドラッギーでもあったってことなのだった。旧赤線とか温泉芸者とか新世界とか訳あり物件とか。

異端の国語学者の評伝の著者をちょっと知ってるもんだから読んでみたんだけど、意外なくらい真っ当な読み応えのある評伝なのだった。あー、こんなこと言っちゃいけないよね。でもヘンテコな本いっぱい書いてるからさあ。

植草甚一、小林信彦、伊藤喜多男、そしてこの碩学。それにしても東京の下町の、戦災や震災で零落した商家の息子の人生はなぜだかみな面白い。そんなこと言っちゃイカンと思いつつ、だけどそうなんだもん。

メリーさんには二度心臓を止められそうになった。二度とも馬車道のディスクユニオンの入ってるビルの前ってのが自分ながら笑えますけど、柱の陰から突然目の前に現れるんだもん。遠くのほうにいるのを気付いて見てるのとは全然ちがう。

あのころ関内、馬車道、伊勢佐木町、吉田町あたりをうろうろしてればメリーさんを目撃するのは、それほど珍しいということでもなかった気がする。

なるほどこういう人生を送った人だったのかということについて、著者があまり一直線でもなく逡巡したり気後れしたりしながらぐずぐずと追いかけて書いてるところも、なんか面白い。

円城塔。老眼にはかなり苦しいアヴァンギャルド小説。ルビと本文を別々に読むってしかし、老眼は置いといても苦しいのね。ルビだけ読もうとすると本文に引きずられ、本文だけを目に入れようとしてもルビがチカチカ邪魔をする。

そしてこの怪異な異体字の世界は作字? それともJIS第236水準なんて世界がマジである?

by god-zi-lla | 2019-03-31 12:44 | 本はココロのゴハンかも | Comments(4)
「本屋はひとりぼっちで行くのかい?」 この2か月で読んだ本の備忘録 第80回記念大会 とか言っちゃってさ_d0027243_10570663.jpg



たまたま「この2か月で読んだ本」のタグをクリックしたら今回が80個めだってことに気付いた。まあこういうのカウントするのはおれの性分じゃないんだが(フザケた数をタイトルに入れたりするのは好きだけどね。『第230,467.5189回』とかさ)、まあよく飽きもせずにこんなもん80回もやってきたもんだぜと笑いつつ並んだ書名に引っかけてみただけなのよ。

しかし写真撮ろうと壁に立てかけてみれば珍しく小説しか読んでない2か月じゃん。

左から。

今夜はひとりぼっちかい?日本文学盛衰史 戦後文学篇 高橋源一郎(講談社)
忘れられた巨人 カズオ・イシグロ/土屋政雄・訳(ハヤカワepi文庫)
夏空白花 須賀しのぶ(ポプラ社)
宇喜多の楽土 木ノ下昌輝(文藝春秋)
もののあはれ ケン・リュウ/古沢嘉通・編・訳(ハヤカワ文庫SF)

高橋源一郎を、じつはいちど読み終えてから声に出して読んで録音している最中なのよ。それがアレなんだよ。とにかく石川さゆり「津軽海峡・冬景色」は出てくるし「天城越え」も出てくる。日本語のラップが出てくると思えば内田裕也の政見放送(英語)だって出てくる。

いま読んでるとこはツイッターだ。しかも「大岡昇平」と「小林秀雄」と「中原中也」がツイッターで会話してたりする。まったくもって、どうやって声に出して読んだらいいんだかわからない。

高橋源一郎は難解である。そこへもってきて朗読なんかするもんだから、難解なだけでなく難題まで突きつけられている。とりあえず石川さゆりはApple Musicから日本人のラップと内田裕也の『政見放送』はYouTubeから取り込んでみたが、どうしたらいいんだ小林秀雄のツイート。

だけど、ほんとに文学なんてもうないんだろうか。

カズオ・イシグロはファンタジーというか、寓話です。こういうものはどうなのかおれにはと思ったが読み始めたら止まらなかった。

しかしこの最初なんだかわからないモヤモヤとしたものが読み進むにつれて少しずつ像を結んでいくんだけど、最終的にそれがハッキリと読み手のアタマの中に像を結んでるのかどうかというとその寸前のビミョーなとこで読者を突き放すような感じがカズオ・イシグロなんでしょうか。

だけど、カズオ・イシグロは文学のような気がする。それはたぶんわかりそうでいながら、最後の最後にわからないものが残るから。

昭和21年8月の空の下に並ぶまっ白いユニフォームというのがタイトルな小説は、ムカシのことを今のコトバで語りすぎる、というよりか今の問題意識でムカシを語ってるきらいがかなりあってそれが相当気になってね。

なんかそういうことを、さいきん本読んでて頻繁に感じるのは、ようするにおれがトシ取ってきたってことなんだと思うんだけどさ。いいじゃんか、トシ取ったって。

宇喜多は朗読のリクエストがあって読んだんだが、予備知識にと思って読んだ前作〈宇喜多の捨て嫁〉より落ち着いて真っ当な歴史小説な気がした。〈捨て嫁〉は連作短編だからまとめて読むとややクドいんだろうな。

だけどおじさんとしては歴史小説はもっとムカシのコトバっぽいコトバ(わかる?)で書いて欲しいのよね。

「左様然らば御免」みたいなヤツさ。それがブンガクだ、なんてことは言わないけども。

ケン・リュウは前に読んだ〈紙の動物園〉て短篇集と原書じゃ本来1冊だったのを邦訳文庫化のさいに2冊に分けちゃったっていうんだけど、そんなんでいいのかね。どっちも面白い短篇集だもんだから、よけい釈然としないものが残るんだけどさ。

なんかさ、いまどきショーバイ抜きでブンガク語れるわけないでしょ、みたいな念を押されてる感じ。


Are You Lonesome Tonight? (今夜はひとりぼっちかい?)







by god-zi-lla | 2019-01-31 22:25 | 本はココロのゴハンかも | Comments(0)
この2か月で読んだ本の備忘録_d0027243_10590261.jpg



ホルモン食って欠けたのかもしれない義歯の先端は歯医者で応急修復してもらった。しかしそのホルモン屋の向かいは日本を代表する日本料理屋のひとつで(当然おれは入ったこともない)、ここじゃあ歯が欠けるような固い料理なんて出すわけないよなあ。狭い道一本隔てただけでこの差ってのがなんかいいよね(よかねーよ)。

左から。

IQ ジョー・イデ/熊谷千寿・訳(ハヤカワ文庫)
宝島 真藤順丈(講談社)
文庫解説ワンダーランド 斉藤美奈子(岩波新書)
高橋悠治という怪物 青柳いづみこ(河出書房新社)
一千一秒物語 稲垣足穂(新潮文庫)

「IQ」つうのは主人公アイゼイア・クィンターベイのイニシャルで村上春樹の小説とはなんの関係もない。LAの下町のクソ真面目でアタマの切れる若い探偵(つか探偵仕事メインの何でも屋)とその相棒の同級生でちょいワル商売人がなんとなくホームズとワトソン君で、アフガニスタンからお帰りですか的な過去の出会いと現在進行中の事件がチラチラと入れ替わる。

この仕掛けも手伝ってかなり面白く読ませるけど、このデビュー作でミステリー小説の賞をいろいろ取った中年新人がこれをシリーズ化するとなれば(すると思うけど)次回作はどーすんのかと興味津々で待つつもりになってるくらいだから、これはやっぱり面白いってことだろうな。

敗戦後から本土復帰直前まで沖縄のウラ社会とオモテ社会の境目にいる若者のウチナーとヤマトとアメリカーをめぐる青春群像冒険活劇。

著者の意図がどうだか知らないが読後今日のニュースを見ただけで沖縄の戦後は全然終わってないよなということを再認識させる。乱暴で荒っぽくて今のコトバで昔を語る無理もあっちこっちにあるけど、それはひょっとしておれがトシ取ったってことの裏返しでしかないのかもしれないから置いとくとして、強引に最後まで引っぱってく(そしてテッテ的にエンタメ小説なのに読んでからも何かしら考えさせる)チカラはたいしたもんだ。

斉藤美奈子ワンダーランドです。やっぱつまらん文庫解説を実例とともにぶっ叩く部分が痛快なのよね。レコードCDの「ライナーノート」でも誰かこういうのやってくんないかな。

あー、でもレコードCDのライナーはいまどき文庫の解説ほど読まれちゃいないか。

いつも不機嫌そうな仏頂面で滅法美味い焼き鳥を出す頑固じじいの来歴を語る本のような本です。でもだって、舞台の上に見る「現在の」高橋悠治ってもろにそういう感じだもん。だけど昔の高橋悠治はそうじゃなくてすごいかっちょよかった。そのかっちょ良さとはなにかも著者はもちろん調べ分析して語る。いやまったくもって面白い。

しかもこの本を買うわずか10数分前に高橋悠治が初めてバッハを録音したレコードを買ったところだっただからさ。なんかもう読む前から面白い。

稲垣足穂は高校生のとき以来の再読だけど、一千一秒物語のほんの一部分をオボロに覚えてただけだな。でもこれが1920年代に書かれたというのがなんかすごいよ。書かれたしょっぱなから新しいとか古いとかいう判断から抜け出してる。

だけどさ。たまたま〈文庫解説ワンダーランド〉と並んじゃったから追記しときますけど、この文庫の解説書き出しにいきなり「稲垣足穂(一九〇〇 -   )」だぜ。存命作家。いったいいつ書かれた解説かと文末を見れば「昭和四十四年九月」とありますがタルホ先生が亡くなったのは77年だから「昭和五十二年」。

おれきっと高校生のときこの解説ごと読んでるね。

奥付見ると「平成十六年」に改版してるのに解説は放置したらしいな。カバーも変わって(著者略歴にちゃんと没年も入ってる)、オビには〈ピース又吉が愛してやまない20冊!〉なんてってるのにさ。

嗚呼新潮文庫。





by god-zi-lla | 2018-11-30 12:12 | 本はココロのゴハンかも | Comments(0)

高橋悠治の日

高橋悠治の日_d0027243_10312098.jpg



どうもこんにちは。

10日くらい前だったかな。御茶ノ水に出る用事があったんだかなかったんだか忘れたけど、ついでのようにユニオン「クラシック館」を覗いたんだよ。

それで新着のエサ箱を端からほじくっていたところ写真左の〈高橋悠治バッハ・リサイタル〉つうCBSソニーの盤を見つけたんでした。オビには「SX68MARK II」の文字、ジャケットには「昭和46年芸術祭参加」の金シール。んー、これは持ってなかったねえ。

高橋悠治のバッハというと〈Three Keyboard Concertos〉(OX-7033 ND)と〈Inventions and sinfonias〉(OX-7091-ND)つう2枚のDENONレーベルの盤を、もうずいぶん長いこと(まあ40年くらいは)愛聴してきたんだよ。

聴きながら高橋悠治の弾いたバッハってほかにもあるのかなあなんて何度か考えないではなかったけど、まあそこはズボラなおれのことですから調べもしなきゃ探しもしなかった。

なにがどういいのか高橋悠治の弾くバッハはと尋ねられてもウマく言えないんだけど、ジャズのレコードをよく聴くようになってからは高橋のバッハを聴くとモンクのピアノを思い出したりするようになったりしてさ。しかし、セロニアス・モンクのことなんか全然知らないころから高橋悠治のバッハを好きだったんだから、それとこれとはまるで関係がないんだけど、なにかしら(聴いてるおれにとっては)共通項があるのかもしれない。すくなくとも、どちらも「普通」ではない。それから、どちらも安易に泣いたり笑ったりするのを拒絶している。

もちろん一瞬の躊躇もなくエサ箱から引っこ抜きレジへ持ってった。バッハのなにをこのレコードで高橋悠治は弾いてるのか、じつはろくに見もしませんでした。レコード会社はソニーだし、おれが持ってる2枚はDENONだしダブってるわけないもんな。老眼鏡の「度」も最近合わなくなってるし。

結局その1枚だけを買い求めてユニオンを出たんだけど、国内盤の日本人演奏家のしかも70年代のレコードとしたら安いとはいえない2000円だったから、きっと探してる人は探してるんでしょう。すみませんね探してないおれが買って。

でまあ、ユニオンを出てうきうきと楽器屋の前なんか歩きながらその日はJAZZ TOKYOを横目で見つつパスして明治大学の前の坂道を下り、まだ時間があったもんですから靖国通りも渡ってすずらん通りの東京堂書店へ入ったんでした。

東京堂には〈知の泉〉って考えようによっちゃイヤミな名前のついた新刊台がレジ前にあるんだけど、これをぐるりと一周するだけで万巻の書物を読破したのと同じご利益があると言われている有名な棚でね。その日もその新刊台を端からぼおーっと眺めてたんだよ。

そしてぼちぼち1周するかというあたりで〈高橋悠治という怪物〉(河出書房新社)つう本が目に刺さってきた。写真の右。おーまたなんという偶然か。著者は青柳いづみこ。もうこの時点で気持ちの半分くらいは買うつもりになってるんだけど、いちおうパラパラと立ち読みし始めた。もくじを見ると最初の章の題は「グレン・グールド」とある。

まあ、それはあるだろうなグールドと高橋悠治を並べて比べるというのは。なんていかにも訳知りふうなツラで文字を追ってたら

 グールドはデビューCDが『ゴルトベルク』だったが、高橋の初バッハは一九七一年、アメリカ時代の後半、サンフランシスコ在住のころに、日本に一時帰国して収録した『バッハ・リサイタル』(ソニー)である。『パルティータ第六番』をメインに、『四つのデュエット』『三声および六声のリチェルカーレ』。現代音楽以外では初めてのアルバムだったが、非常に高い評価を得た。

思わず小脇に抱えてたユニオンの黒い袋を開けて確かめようかと思ったぜ。

いやしかし確かめるまでもない。いまさっきそいつを買い求めて駿河台の坂を下ってきたばかりじゃないか。そうなのか、これが高橋悠治の初バッハレコードだったのか。いやー面白いこともあるもんだなあ。おれが信心深い人間だったら神様にお礼を言ったりするんだろうな。

帰宅後、レコードも本も思いっきり楽しんだのは言うまでもありません。


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(引用文中『デビューCD』とあるのは重版のときに訂正されますように、版元様)




by god-zi-lla | 2018-10-26 12:09 | 常用レコード絵日記 | Comments(2)
この2か月で読んだ本の備忘録(一部書き換えた)_d0027243_12332865.jpg



それにしても見事な台風一過だねえ。
昼間は気温30度を超えてたもんな。

ベランダはどこから飛んできたのか葉っぱだらけ。

左から。

宇喜多の捨て嫁 木下昌輝(文藝春秋・古本)
ちゃぶ台返しの歌舞伎入門 矢内賢二(新潮選書)
断片的なものの社会学 岸政彦(朝日出版社)
藩消滅 明治維新が見捨てた藩四千人の彷徨 高橋銀次郎(叢文社)
紛争地の看護師 白川優子(小学館)
コルトレーン パオロ・パリージ/石原有佐子・訳(Pヴァイン)

同じ作家の〈宇喜多の楽土〉という小説を病床の後輩の希望で朗読・録音するにあたって、どうもその「前日譚」らしいこっちに先に目を通しといたほうがいいんじゃないかと思ったんだよ。もしかしたら自力で読書できた時期にこれを読んで、その後の話に興味を持った可能性が高いからさ。

戦国大名宇喜多秀家の父で、「梟雄」と呼ばれた宇喜多直家のものがたり。

この小説は新人にもかかわらず沢山の文学賞を取ったんだそうだけど、若い世代の時代小説家の作品というのはこんな感じなのかといろいろ感ずるところ多し。なにしろ複数の文学賞を取ってるんだから、おそらくこのへんがひとつの「頂点」だとみて差し支えないんでしょうからね。

奥歯に物の挟まったような物言いでイヤミ? 
いま、ちょうどそういうことを書いてみたい気分なのよ。

イヤミついでに書いとくとね。すでに読み始めた〈楽土〉のほうがおれはずいぶん小説として良い気がするけど、これについちゃふた月後にまた。

どうして書名に「ちゃぶ台返し」なんてつけるかなあ。げんにおれはこの書名に引っかかって一旦視野の外に追っ払ってたのをあるとき思い返して本屋で手に取って、いやあこれはとっても結構な入門書じゃんか。危ういところで良書を見逃さずにすんだわい。やっぱ本屋で立ち読みせにゃあイカンよなあと思ったのであった。

入門書ってのは初心者がなるほどそうかと思うようなことが書いてあって、それは当然のことなんだけどさ。良い入門書ってのは、こっちがその後その事物についてさらに経験を積んだあとでまた繙いたときに、なるほどそうだったのかと膝を打つようなことが書いてあったのにあらためて気づくような本で、この本はそういう一冊だと思う。

〈断片的なものの社会学〉はなんといっていいのかわかんないんだけど、いろんなフツーの人の人生についての「聞き書き」の断片の集まりで、ここからどんな回路を通過すると「社会学」というガクモンになるのかというようなことはとりあえず考えないことにして読むしかおれには術がないんだが、これは読み始めたら止まらなかった。

もちろん「フツーの人」といっても有名人や犯罪者じゃないという意味に限ったことで、語る中身は犯罪者や有名人のほうがずっと「フツー」だったりするなんてことは別に言うまでもなくフツーの現象である。

いやー「藩」はみんな明治維新で「消滅」しちゃったじゃんかという意味の消滅じゃなくて、幕末の政治状況の不条理さの犠牲になって山陰の真っ正直な小藩が、その真っ正直さゆえに消し飛んでしまった事実をおれの先輩が小説にしたんであった。

小説としては正直言って欠点や未完成なところも多いんだが、それはそれとしてこういうことが幕末・明治維新の時代にあったのかという新鮮な驚きがあるんだよな。

明治維新嫌いにはオススメします。とくに長州。
ちなみに著者は神田生まれの江戸っ子なり。

〈国境なき医師団〉には毎月ごく少額の寄付を続けてる。いっぺんどこかの紛争地に医療団を派遣するというのに寄付をしたら、それ以来定期的にニュースレターが送られてくるようになってね。

まあそういう宣伝はこうした非営利活動を持続するためには必要不可欠なことではあるわけだが、毎月のように送られてくるとなれば制作費に送料にとバカにならない費用がかさんでるに違いない。じゃあせめて自分ちに届くニュースレターの分くらいは負担しようと、3年ほど前から子どもの小遣い銭程度の寄付を毎月するようになったんだけどさ。

その、届いたニュースレターにこの本の紹介があった。

いやあ戦場の近くや難民の集まる場所、あるいは大災害のあった地域にいち早く乗り込んで医療活動をするということの「実際」について、自分がなんの想像力も持ち合わせてなかったことに気づかされた。

これはもう、どう説明していいかわからない。

手や足が(あるいはその両方が)地雷でもげた子どもたちが何人も運び込まれる。点滴を打たなければならない患者がいても気温50度を超える炎天下の屋外ではそれができない。手術は成功したものの仮設テントでは術後の管理が出来ず、あたら命を落とす少女。急病で運び込まれた女性に治療を施そうとしたら妊娠していることが判って外科医(産科医が現場にいないから)が帝王切開を行うと、とりあげた赤ん坊が呼吸をしていない。それからそれから。

これらひとつひとつが伝聞でなく著者が実際に接して治療に当たった人々のことで、読んでいると救った命より救えなかった命のほうが多かったんだろうと想像がつく。

すると当然著者はその目の前の過酷な現実を通して「世界」について考えざるをえない。

おれはこういうことはめったに思わないんだけど、この本はひとりでも多くの人が読んだほうがいいと思う。

〈コルトレーン〉はすでにここで


by god-zi-lla | 2018-10-01 18:56 | 本はココロのゴハンかも | Comments(0)