神はどーだっていいとこに宿る


by god-zi-lla
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そうやってニンゲンはボケていくわけなのであるが、それでもなおかつ覚えてる芝居を忘れられない芝居というのである。

って、なに言ってんだおれ。

とにかくどんどん忘れちゃうので、このブログの他人さまにはご覧いただけない場所に見物した芝居をひそかにメモしてある。それを見返すと先週金曜池袋で見物したモダンスイマーズの〈ビューティフルワールド〉が今年15回目の芝居見物なのであった。

その15回のうち歌舞伎役者がやる「歌舞伎」が6回、歌舞伎役者じゃない俳優が歌舞伎の演目をやる「木ノ下歌舞伎」に1回、あとの8回はいわゆるひとつのストレートプレイつうか普通の芝居。

「ストレートプレイ」つうと台詞の芝居、つかミュージカルじゃない(=歌わない踊らない)舞台を指すらしいが、名古屋の少年王者館が初台の新国立劇場小劇場に出張ってきた〈1001〉は相当歌って踊るが、まあしかしミュージカルとは言わないだろうな。

そういや横浜のKAATで見物した木ノ下歌舞伎の演し物は〈摂州合邦辻〉つう文楽や歌舞伎で繰り返し上演される有名な芝居だけども、けっこう歌って踊る。しかも男はスーツ、女はスカートつうような衣裳で。

まあしかし、あれをミュージカルとは言わないだろうな。でも「歌舞伎」でもない。

だけど「普通の芝居」か。じゃ「普通の芝居」ってナンだ。まあいいや。

それはともかくとしてだな。去年おととしあたりから蓬莱竜太の書く芝居がすごく気になり始め、今年になってから3月に紀伊國屋ホールで〈母と惑星について、および自転する女達の記録〉、4月は池袋のシアターイーストで〈まほろば〉、5月には紀伊國屋サザンシアターでこまつ座〈木の上の軍隊〉(井上ひさしの着想を蓬莱が具体化)、そしてつい先日蓬莱竜太が共同主宰する劇団モダンスイマーズの〈ビューティフルワールド〉(作と演出)をシアターイーストで見物したから、もう4演目だ。

蓬莱竜太といえば「母」である。といってもいいんじゃあるまいか。なにしろ蓬莱における「母」はトンでもなくトンでもない存在である。家族を繋ぎ止めようとして、かえって解体を促進するような存在である。自己犠牲の皮を被った自己愛のような存在ともいえる。クラッシャーマムである(そんなコトバあんのか)。今年前半見たのも、井上ひさし原案の〈木の上の軍隊〉を覗く3つは「母物」である。

それから蓬莱竜太といえば、会話の(とくに芝居始まって序盤の)「間の悪さ」と「噛み合わなさ」。

あの居心地の悪さってのはどういうふうに脚本のなかに「文字化」されてんですかね。演出も自分でするならいざ知らず、たいていのばあい脚本書いてあとは演出家がなんとかするわけでしょうから。とにかくその「間の悪い」「噛み合わない」コトバのやりとりから登場人物おのおのの関係を見せていく感覚が面白い。

考えてみれば「噛み合ってない」んだから、そもそも人間関係はキチンと「構築されてない」ともいえるわけで、しかしそれが芝居が進んでいくにつれて暴かれつつ「崩壊」してくんだから、ニンゲンカンケーってのは「構築」なんてされないまま大抵のばやい「テキトーに取り繕われた体裁だけ」で成り立ってるってことなんだなあなどと、芝居が跳ねたあと思ってしまうのであった。

そのわりに芝居全体のトーンは暗くない、ようにおれには見える。なんらかの救いのようなものが見える。蓬莱竜太はニンゲンとニンゲンの関係に絶望してるわけではないという感じ。

「木の上の軍隊」という芝居は、敗戦後沖縄で実際にあった出来事の新聞記事に着想を得て、井上ひさしがこまつ座の芝居にするために簡単なメモとタイトルを残してたらしい。ようするに脚本そのものはほぼ蓬莱竜太のオリジナルってことみたいだ。

6年前に初演を見たが、今回のほうがより沖縄の地上戦と現在についてのメッセージ性が強化されてる。そのように脚本も演出も変更を加えてあると芝居が跳ねた直後は思ってたんだが、どうもそれはおれの勘違いで、沖縄についておれの関心が6年前よりもはるかに高くなってるからそう見えたんじゃあるまいか。

戦争を題材にした井上ひさしの芝居は、ときに作者のメッセージがシンプルに刺さり過ぎてウンザリするくらいのことがあるけど、蓬莱竜太の脚本もけっこう直線的に沖縄の昔と今に対峙してる。

まだまだいろいろ見たい蓬莱竜太。

蓬莱竜太といえば数年前、赤坂ACTシアターの「赤坂大歌舞伎」で勘九郎・七之助の中村屋兄弟のために作った〈赤目の転生〉がすこぶる面白く、それが遅まきながら蓬莱竜太の芝居にグッと引き寄せられるキッカケだった。時制を巻き戻しちゃあ同じシーンに戻り、少しだけ違う展開になる。こんなことを歌舞伎でやれてしまうところがスゴいと思って見物したが、それほど話題になったようにも思えない。

野田秀樹の歌舞伎を最初に見たのが古い歌舞伎座最後の冬の〈野田版鼠小僧〉で、勘三郎ほかの芝居もともかくとして、役者の身体能力、極端なアスペクト比の舞台正面、そして舞台機構とかそういうものすべてをひっくるめた「歌舞伎」の特質をめいっぱい使って見せるチカラワザに驚いた。

そして、それとはちょっと違うが、やはり「歌舞伎」の持つ特性みたいのを蓬莱竜太も赤坂の舞台で引き出してたように見えたんだが、今月歌舞伎座の三谷幸喜〈月光露針路日本 風雲児たち〉はなんか当たり障りのない「新作歌舞伎」つう感じで見終わってしまった。

三谷幸喜らしく面白いけど、ぶっちゃけ、ただ面白いだけのことだ。

まあ、こっちがへんに刺激を求めるのがイケナイのかもしんないけど、名のある演劇人が歌舞伎の世界に乗り込んできてなんかやるっつうのに、そういうの期待するなってのもアレだろ。

そういう意味でいうと2019年、ここまで(歌舞伎も歌舞伎でないのも含め)芝居をいくつか見たなかで一番印象深かったのが天王洲のデカい倉庫に仮設の舞台を設えて上演された〈女殺油地獄〉だった。

〈女殺…〉つうのは近松門左衛門の作った、歌舞伎としちゃあ珍しく非常にリアルなストーリーで、実直で裕福な商家の息子が、親が甘々なのをいいことに増長して遊び呆け、親に黙って親を保証人に立て返す宛てのない高利のカネまで借りて遊びにつぎ込む。

そのバカ息子に親の同業者の善良な妻が親切に意見するのも聞かず、とうとう親にも打ち明けられぬまま返済期限が来て窮した挙げ句のはてに、よりによってその親切な同業者の妻を殺して金を奪うという、いま起こってもそう不思議じゃないような殺伐とした惨劇なわけだ。

その殺伐とした芝居を殺伐としたコンクリ打ちっ放しの倉庫でやる。しかも客席は四方にあって舞台を囲む。近ごろストレートプレイならとくに珍しいというほどでもないけど、少なくとも歌舞伎で見るのはおれは初めてだ。

当然、歌舞伎の書き割りのような舞台装置はなにもない。客席から舞台の役者を見れば、その背後も照明を落とした客席の闇だ。

これが、この陰惨でイヤな感じの芝居にぴったりとハマってる。

もちろん役者の拵えは当たり前の歌舞伎の〈女殺油地獄〉でセリフ回しも古典的な上演とほぼ変わらない。なのにそれが倉庫に仮設の殺風景な舞台で演じられて不思議なくらい違和感がない。むしろ何もないぶん近松の芝居が夾雑物なしに刺さってきて、歌舞伎や文楽の通常の舞台で見物するよりずっと凄惨でリアルで気持ち悪い。

これは演出の(出演もした)赤堀雅秋と中村獅童がよく作ったもんだと感心しちゃったよ。獅童もいいが殺される女房を演ずる壱太郎もいい。それから何より獅童の馬鹿息子の両親になる嵐橘三郎と上村吉弥が最高にいい。この二人が殺風景な天王洲の殺風景な倉庫をまるごと浪花へワープさせた。歌舞伎ってのは梨園の外のたくさんの芸達者がいてこそのモンだってことを、この日も知らされた。

上演期間が短く客席数もうんと少ないから仕方ないとは思うんだけど、普段おれたちが見物してる席の何倍もするチケット代が非常に苦しかった。でもまあその分、すごく舞台に近いところからリアルな惨劇を覗き見るような怖さに浸れたから良しとする。

正直言って〈女殺油地獄〉はこれから毎回こういうシチュエーションで見てもいいくらいだと思った(お高くなければ)。

つうことで、おれ的にはここまでの半年、天王洲寺田倉庫の〈女殺油地獄〉が一番の収穫だな。







by god-zi-lla | 2019-06-26 10:39 | 物見遊山十把一絡げ | Comments(2)




ここんとこ、野田秀樹の芝居とか三谷幸喜の芝居の切符を買おうと思うと抽選でハズレ続けてさ。最初のうちはムキになって何度も何度も申し込んだりしてみたんだが、やっぱり外れる。

で、そうなると野田や三谷の芝居の切符買うためのお金(と時間)が残ってくるから、ほかの芝居を見に行くわけだ。するとさ。いままであんまり意識してなかった役者や演出家や脚本家の良さに気づいたりして、んー、もしかしておれらミョーなブランド志向に陥ってたんでないのか。野田や三谷の芝居だってつまんないときはつまんないわけだし、そんなこと悔しがってるヒマ(とカネ)があったら別の面白い芝居を探したほうが人生よっぽど充実してんじゃんよ。

だから見たってわけじゃないけど、ことしの初めのほうに新国立の小劇場で見た〈アンチゴーヌ〉が良かった。とりわけ初めて舞台を見た蒼井優にびっくりしてね。いやいやなんとしたことか。鋭い感性と身体能力の高さで舞台を支配する、こんなたいした俳優だったってことを今まで知らなかったのがホントに悔しい。

つうわけでついせんだっての12月22日の土曜日にまた新国立の小劇場で〈スカイライト〉の蒼井優。歌舞伎以外じゃ多分これが今年最後の芝居見物だな。

年の初めに見たのはギリシア悲劇〈アンチゴネー〉をもとにした芝居で、こんだのは90年代後半のロンドンを舞台にした現代劇だから中身はまるで違うんだが、どちらも台詞と仕事のやたら多い芝居のうえ舞台を360度あらゆる方向から観客が見つめている(新国立だけで地方公演は違うかもしれない)。いやあこれをとりあえずカタチにするだけで並みの役者なら精いっぱいなんじゃあるまいか。すごいよ蒼井優。

この1年でおじさんはもうすっかり蒼井優ちゃんのファンになりました。

それからもう一人この1年ですっかりファンになっちゃったのが蓬莱竜太である。

去年、赤坂ACTシアターで勘九郎・七之助の兄弟の「赤坂大歌舞伎」で〈夢幻恋双紙〜赤目の転生〉というのをやったんだが、これの脚本・演出が蓬莱竜太でさ。ぢつはこれを見るまで蓬莱竜太のことをまるで知らなかった。

この舞台はお客はよく入ってたもののどうもあんまり注目されなかった気がするんだけど、おれはすごく面白く見た。なにしろ歌舞伎でこんなに時制が何度も行ったり戻ったりする芝居なんて古今なかったんじゃないか。

歌舞伎の古典てのは大概が荒唐無稽でハナシの辻褄なんか二の次だったりするんだけど、さすがに時計が巻戻ったりすることはない。その時制が行ったり来たりしながら起こる悲劇の世界を蓬莱竜太が作り上げて勘九郎、七之助に亀鶴といった面々がそれを咀嚼して見事に演じたんだが、正直言っておれが今まで(過去の映像も含めて)見た現代作家の歌舞伎のなかで一番斬新に思えた。

んー。こりゃあ迂闊でした。蓬莱竜太、これからはちゃんと見なくちゃ。

で、今年になって再び新国立の小劇場だ。年の初めに〈アンチゴーヌ〉を見たとき入り口でもらったチラシの束のなかに蓬莱竜太脚本の〈消えていくなら朝〉があって、そうだそうだこれは見なくっちゃと切符買って行ったのが7月20日だ。

これが田舎に暮らす父母兄妹に東京へ出てちょっと成功して有名になった脚本家の弟といったメンメンの抱える、ひとつひとつはよくありそうなモンダイがいろいろ詰め合わさった結果、ありえないようにフクザツでぐちゃぐちゃになった家族模様を描く芝居で面白い。なるほどこう来るか。いやあもっと見たいぞ蓬莱竜太。

と思ってその日受け取ったチラシの束を検分するとですね。そのなかに池袋ゲージツ劇場シアターイーストで蓬莱竜太が所属する劇団「モダンスイマーズ」の〈死ンデ、イル〉のチラシがあるじゃんか(チラシ見るのは大事よ)。しかもチラシ見た7月20日その日が初日で29日まで。チラシが入ってるってことはまだ席があるってことだな。あわてて取って滑り込んだ26日の池袋ウェストゲートパーク。

これもまた面白いんだ。つか、蓬莱竜太にかぎらずこれが今年見た芝居のなかでいちばん面白かったかもしれない。どういう芝居かモダンスイマーズのサイトに習っていえば、震災で避難生活を余儀なくされたひとりの女子高生の失踪にまつわる群像劇、である。登場するのはフツーの女子高生、その彼氏のダサい(のちチャラい)男子高校生、女子高生の母(じゃなくて姉だった)とその夫、女子高生の担任の先生、女子高生と母(じゃなくて姉)が避難先の家主である親類のおばさん(独身)、東京に住む女子高生の叔父、ホームレスの男、それから被災地を取材するナゾのフリーライター。舞台上にとくに装置はなく椅子と机が出し入れされるのみ。

そしたらこの芝居は〈句読点三部作〉と呼ばれる連作のなかの最終作で何年かぶりの再演なんだっていう。しかもほかの2作は先に再演したっていうじゃんか。あちゃー。いかんなー、おれらなんだかんだ言いながら立ててるアンテナ性能悪すぎ。蓬莱竜太の芝居見ようと気をつけてたハズなのにこれだ。来年は頑張るぞ(なんのこっちゃ)。

いやしかしアレですよ、おれのような凡人はついネームバリューやブランドや過去の実績に目をくらまされて、若いひとやメディアに注目されにくいところで面白いことやってる人たちになかなか気がつかない。

いつも自分に掛け声だけはかけてんだけどね。若いヤツらに木戸銭払おうぜって。

若いヤツらといえばつい先日、京都の南座の顔見世で中村鷹之資と片岡千之助が踊った「三社祭」が良かった。鷹之資が19歳、千之助は18歳。ふたりきりで踊る動きの激しい演目なんだけど、若いヤツらが必死で稽古して満員のお客の前で懸命に踊るのがじつにまったく、おじさんはニコニコしながら見物してしまったのであった。今年たくさん見た歌舞伎の演目のなかでいちばん印象深かったな。

そりゃ、すごい役者とか最高の芝居とかってのはいくらでも見ましたけど、それはそれ、これはこれってヤツだ。

年の瀬にティーネイジャーふたりにいいモン見せてもらったぜ。






by god-zi-lla | 2018-12-29 08:06 | 物見遊山十把一絡げ | Comments(0)

今年も顔見世の京都

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昼間はこの前で写真撮ってるおばちゃんとか大勢いたりして、そういうとこに混じって自分もスマホ構える勇気はないんですけどさ。さすが深夜12時を回ればひっそりと静まり返ってお客はひとりもいない河原町御池のホテルのロビーのツリーなのであった。

あと2時間くらいしたら来そうだよね、サンタのおじさん。

顔見世夜の部がはねて虎吉さんに連れられ南座からほど近いなかなかの居酒屋で旧交と胃袋を温めた帰りなのだったが、なにしろ芝居のはねたのがもう10時になろうかって時分ですからね。飲み屋のカウンターの前にいたのはちょっきり2時間くらいである。

つうわけで、この暮れも京都までわざわざ芝居見物に行ってきたんでした。われながらじつにまったく酔狂なことだと思うんだが今年は久しぶりの南座ですから。

おととしの年の初めころ、松竹のホームページに「南座はしばらく休館します」ってお知らせが、わりかし唐突な感じで出た。しばらく? しばらくってなにさ。いつからいつまでって告知がない。

さいきんビル建て替えでしばらく休業しますって貼り紙を出してラーメン屋とか飲み屋が店を閉めると、まあビルは建て替わるるんだけどその店は永遠に消えちまうって事態がよくあるじゃんか。だけどまさかね。南座だしね。重要文化財だしさ。松竹はちょっと信用できないようなとこもあるけど。

南座の長い長い耐震補強工事の期間中、「京の師走の年中行事」っていう枕詞のかならず付く顔見世興行はおととしが先斗町の歌舞練場、去年は東山のロームシアターに掛かった。

ロームシアターで見る歌舞伎には少なからずげっそりしちゃったけど、先斗町歌舞練場はよかったねえ。正直言ってここでずっとやってくれるんだったら南座がラーメン屋のように消えちまっても構わないとまで思えたもんだった。いやまったくもってあの古くてこぢんまりとした小屋の雰囲気の良さといったら。

芝居ってのは掛かる小屋によって印象がコロコロ変わっちゃうもんである。まあ、だからこそ近ごろのたとえば新国立劇場小劇場にしてもシアターコクーンにしても池袋の東京ゲージツ劇場プレイハウスとシアターイースト&ウェストにしても、改装するときに内装の基調をまっ黒けにして劇場の個性を消し、芝居の邪魔をしないようにするんだと思うんだな。

だけどやっぱり紀伊國屋ホールには紀伊國屋ホールの、本多劇場には本多劇場の、そこはやっぱり消すに消しようのない個性ってものがあって、どうしたってそれ込みの芝居の印象になる。まっ黒けに改装した小屋だってそれが薄まりはしてもそこから逃れられるってことはない。

そこいくと同じ芝居でも歌舞伎は最初っから小屋込みで楽しむもんである。やっぱり「いかにもそれらしい」小屋で、舞台には作り付けの本花道があって両脇の壁の客席の上にはズラっと提灯がぶる下がってね。まかり間違ったって壁をまっ黒けに塗るなんて無粋はやらない。

外観だってそうだよ。四条河原町の交差点のとこで鴨川を挟んで四条大橋の向こう側に帝冠様式の古い建物が見えてきただけで、あーおれはこれから顔見世見物だあーって気分が盛り上がってくるもんな。

そういう「らしさ」って間違いなく歌舞伎見物の楽しみの一部になっている。そういう意味じゃエコノミー症候群で死人が続出してても全然不思議なじゃない3階4階席のあの狭っ苦しさをなんとかしてほしいとは思いつつ、少なくとも「らしさ」についちゃあ歌舞伎座に勝ってるんじゃあるまいかしら。

かりに南座がなくなって祇園や先斗町の歌舞練場も使えず、これから先、京の師走の年中行事の顔見世はずっとロームシアターでやることになりましたなんてことにでもなれば、もしかしたらもう京の師走に用はないかもしれない。

まあそんなこんなで、そういえば初めて南座の顔見世を見物に来たのはいつだったかと思い返してみても全然思い出せないから以前のブログをひっくり返してみれば(ひっくり返しゃしませんけどね、本じゃないんだから)、勘九郎の襲名披露のときだから2012年が初めての顔見世見物だった。

新橋演舞場(歌舞伎座建て替え中で大歌舞伎の櫓は演舞場の軒の上にあった)で勘九郎の襲名興行が行われたときは勘三郎が披露口上で挨拶をしてね。とても華やかな笑いの絶えない口上が続いたんだけどさ。勘三郎が亡くなったのが12月に入ってすぐだからその年の顔見世の初日のころだったんじゃなかったか。

おれたちが南座に行ったのが23日で、披露口上は演舞場のときと打って変わって客席から啜り泣きが聞こえてくるんだよ。そりゃあ無理もないよな。だけど勘九郎と七之助の兄弟はあのとき上出来の舞台を務めたんだから、じつに天晴れなものであったと思う。

それから古い南座にはあと1回、ということは今年が5回目の「京の師走の年中行事」で新装なった南座で初めての顔見世だ。なんかもう、徐々にわたしら夫婦にとっても顔見世見物に京に上るのが師走の年中行事になりつつありますね。




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初めてここに「まねき」を掲げてもらう名題さんは、きっと晴れがましいのだろうなあ。





by god-zi-lla | 2018-12-19 11:38 | 物見遊山十把一絡げ | Comments(2)
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入り口でくれたパンフレットのイラストが矢吹申彦でみょうにうれしい。

というわけで去る9月27日青山のスパイラルホールで串田和美の演出・美術(悪魔の役も)によるストラヴィンスキー〈兵士の物語〉を見物してきたのだったが、帰ってからいつもお世話になっているこちらのブログを拝見したところなんと今年は初演100年周年だそうではないか。

しかもだよ。エルネスト・アンセルメの指揮によってスイスはローザンヌの市立劇場で初演されたのは1918年の9月28日。いやーウカツなことにまったく知りませんでした。おれが見たその夜は100周年の「前夜」だったわけか。

これってどう考えたって公演のさなかに初演100年を迎えるということをはっきり意識した設定だよなー。でも、上のパンフレットにもそんなこと書いてないし。チケット買うときにもそういう情報はとくになかった気がするんだけどね。知ってりゃジャスト100年めの日のチケット買ったのにさ。

まあいいや。とにかくメデタイじゃありませんか。ストラヴィンスキーのこの上演しやすいとは思えない風変わりな名作が100年の間忘れ去られずに上演され続けてきたわけだ。100周年おめでとー!!

しかし1918年といえばロシア革命の翌年で、スイス滞在中のストラヴィンスキーはロシア国内にある財産のすべてを失って途方に暮れるような日々だったわけで、それを考えるとこの〈兵士の物語〉の(帰りたくとも帰れない故郷、ひとたびそこへ足を踏み入れればおそらく取り込まれたまま二度と元の自由な暮らしに戻れない)というようなストーリーに己が人生に降りかかった苦難を重ね合わせるような気分も多少はあったのか。

とにかくまあ祖国で起こった革命のために困窮したストラヴィンスキーは、食うためにこの作品を作りアンセルメたちがそれに協力して初演ということになったんでしょうが、そこからこんなに不思議な舞台作品の傑作が生まれるんだから偉大な芸術家ってのはすごいもんだ(天才は逆境に置くに限る、なんつて)。

前にも書いたけどおれが初めて〈兵士の物語〉の実演を見たのは2009年、新国立劇場中劇場のアダム・クーパー主演、ウィル・タケット振付・演出の「ロイヤルバレエ」版だった(2015年に東京芸術劇場プレイハウスで再演された公演も見た)。いやなにしろアダム・クーパーとロイヤルバレエご一統だから、ほんらい「語られ/演じられ/踊られる」舞台は「語りながら踊り/演じながら踊り」さらに「踊りながら/踊る」というような凄まじい舞台で、兵士も悪魔も、それから語り手までもがずうっーとあの変拍子の音楽に合わせて最初から最後まで踊っている。度肝を抜かれたと同時に〈兵士の物語〉ってのはレコード聴いてるだけじゃ想像もつかない、ダンスを含んだ舞台なんだってことを「必要以上」に思い知らされてしまったんである。

それから2012年松本芸術館でロラン・レヴィ演出の(串田和美は悪魔役で出演)舞台を見た。これはぐっと「イマドキの演劇」的な演出で、バンドは全員舞台ど真ん中にいて必然的に舞台装置らしきものはほとんどなく、役者と語り手はほとんどミュージシャンに混ざって動き回ってる。踊るのは王女だけ。ラストのシーンなんてこの劇場の舞台機構なしには出来ない奇抜さでこれには思わずアッと声を上げたんだけど、この意表を突いた幕切れの演出がまたいかにも「現代の演劇」なんだよ。

ほいでもって2014年。同じようにサイトウ・キネン・フェスティバル松本のプログラムとして上演された、こんだは演出が串田和美に変わった〈兵士の物語〉を見に行った。

ロラン・レヴィから串田和美に演出が変わったのは2013年からで、そもそもサイトウ・キネン松本で「兵士」をやるというのは2014年のプログラムによれば小澤征爾の(音楽だけじゃなく大道芸や芝居もあるフェスに)という構想に串田が応える形で始まったんだそうで、2013年から串田みずから演出するようになったのも小澤の提案によるものだったというんだな。

ひょっとしてマエストロは、あのさー串田ちゃん、ロランの演出も悪かないと思うんだけどさ。おれはなんつうかもうちょっとヨーロッパの場末の劇場で上演されてる小さなお芝居みたいな雰囲気を期待してたんだよね。まあ現代フランスの知識人ロランからすればそういう、いかにもありげな演出ってのを避けたい気分がわかんないわけじゃないんだけどさ。フランス人とちがい日本人はそういうの見慣れてるわけじゃないでしょ。ことに松本のお客さんはさ。

だから串田ちゃん。つぎから演出もやってよ。もうちょっとロシアの民話的な感じを前に出して舞台装置なんかも楽しげな感じにして。ほら、上海バンスキングで舞台がはねてお客がロビーに出てきたら、先回りして待ち受けてた出演者が楽器演奏しながら客を送り出すなんて趣向があったじゃない。ああいうのもいいよねえ。どう串田ちゃん、来年から。

なんていうようなことを仰せになったかどうかはわからない。

でも結果として串田演出ではそのような〈兵士の物語〉になっている。しかも兵士の役に首藤康之を持ってきた。

アダム・クーパーの〈兵士の物語〉を見たときは、それが初めて触れたこの作品の実演だったってのも手伝って強烈な印象だったんだけどさ。その後松本でレヴィ版を見たあとでクーパー版を再び見たときにはちょっとこれはある意味やり過ぎなんだろうと思った。やっぱ踊りすぎなんだよね。しかも非常にレベルの高いダンスが全編で繰り広げられるもんだから、目がそこに釘付けになって脳が留守になる。

たしかにアダム・クーパーのファンや、純粋なバレエのファンにとっちゃきっと最高だろうけど。

だけどさ。古めかしさを装いつつも本当は聞いたこともないようなストラヴィンスキーの音楽が、シンプルで皮肉でちょっと荒々しいロシアの民話と絡みあう〈兵士の物語〉の面白さをね、超人的なダンスの連続がどっかへ吹っ飛ばしちゃう瞬間があるんだよ。

思いっきり「現代演劇」に針を振ったレヴィ版と、ストラヴィンスキーのバレエ作品のひとつのように見立てたクーパー版の間にあって、ひょっとしたら串田版は100年前の初演のイメージとあんまり違和感のない仕上がりになってるんじゃないかしらん(だれも確認できないけどさ)。

串田版でも、病の床にいる王女(渡辺理恵、東京バレエ団出身)の傍らで悪魔から奪い返したヴァイオリンを兵士が弾き始めるところから、王女が目覚めて兵士とともに踊る場面はほとんどバレエの舞台でいうところの「パ・ド・ドゥ」ってやつじゃないか(渡辺理恵はトウシューズを履いて踊る)。振り付けはもちろん首藤康之。短いけどクラシカルだったりモダンになったり(『タンゴ・ワルツ・ラグタイム』なんて曲もあるしね)、はっきりいって楽しい。

このシーンが終わったところで自然に客席から大きな拍手が沸き起こったりするのも、まるでバレエの舞台みたいだ。

だけどバレエ的な部分はこれでじゅうぶんなんじゃあるまいか。ウィル・タケットとアダム・クーパーには悪いんだけど、そもそもが限られた人と手間とお金でササッと上演するように作られたんでしょうから、あんまりすごいバレエ作品になっちゃうとそりゃあ違うんじゃないかって気がするんだよな。

つうわけで今回おれが見た青山スパイラルの舞台は2013年、2014年に続く串田演出による再々演ということになるわけだ。2014年から2018年、細かく覚えてるわけじゃないから断言できないけど、基本的な演出は変わってなかったと思うんだよ。

だけど、これはもしかするとおれの思い違いかもしれないが、2014年に比べて首藤康之のセリフが少し増えたような気がする。この4年のあいだの首藤の「俳優」としての進境を踏まえて串田が上演台本で付け加えたのか、あるいは語りのなかに含まれている兵士の言葉を首藤の兵士に語らせるようにしたのか、ひょっとしたらそう錯覚させるほどに首藤の俳優としての存在感が増したのか、そこんとこはよくわからないけども。

とにかく首藤康之は役者としてずいぶん成長したとおれには見えた。4年前はダンサーが不慣れなセリフを喋ってますっていう感じがまだ少しあって、身のこなしの美しさとの間にいささかのギャップがあった。ところが今年の舞台ではそういう頼りなさは影を潜めてもう立派な舞台俳優になっている。

初演からちょうど100年の節目ていうだけじゃなく、そこに兵士を演じ踊る首藤の俳優としての進境が加わることで再演の意義がより深まったんじゃないかとおれには思えたんだけどね。

ところでおれが〈兵士の物語〉の舞台を見物するのもなんだかんだいいながらこれで5回目になった。もともとそんなにややこしい物語じゃないしセリフが多いわけでもないし、上演時間だってどう引っぱっても2時間なんてかからない小ぶりな舞台だ(そりゃそうでしょ、レコード両面1枚に入っちゃうんだから)。

すると、マルケヴィッチ/コクトー盤やブーレーズ盤のようにフランス語で収録されたレコードを聴いても近ごろは対訳を手元に置かなくても舞台の情景がありありと思い浮かぶようになってきてさ。以前よりずっと面白おかしくレコードを聴けるもんだから、なんだかうれしい(うちにあるブーレーズ盤とデュトワ盤の国内盤には安藤元雄の訳が付録で入ってる。コクトー盤は王女もセリフを言うのでちょっと違うと思うけど仏盤で対訳なし)。

フランス語なんておれは一言半句わかんないけど、情景が見えるようになると語り手と兵士と悪魔のやりとりの調子や抑揚もけっこう楽しめるようになってね。これは実演を何回か見たことで頂戴できた、ありがたいご利益のようなもんだよな。

機会があれば別の演出・別の俳優の舞台も沢山見たいね。なかなか難しいかもしれないけど。




by god-zi-lla | 2018-10-13 12:59 | 物見遊山十把一絡げ | Comments(0)
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せんだって奥さんの知り合いが国立劇場の文楽のチケットを持ってたんだけど仕事で行かれなくなったというので、ありがたく2枚譲ってもらいアラサー(つか、over 30)の娘と19日の土曜日の夕方から見物してきたのであった。

それがしかしね。奥さんの知り合いの知り合いの連れ合いの親類が文楽の三味線方で、その筋の手配のチケットだそうでさ。で、聞けばもれなく開演前に楽屋見学ツアーをさしてくれるっていうじゃんか。うひゃあ、なんてこったい。そいつはうれしいじゃないか。

というのが上の写真で、おれはもっぱら解説を伺いながら、へえー、とか、ほおー、とかヒザを叩いて感心してるだけで写真は全部娘がスマホで撮ったんでした。いやーホント、写真撮っていいんだったらカメラ持ってくりゃよかったって。

上は人形の「かしら」を前後に腑分けした図なり。このような仕掛けでもって眉とか口元とか動かすんだね。

だけどそれより驚いたのはこの「かしら」は初めから前後に分けて(ふたつの木で)作られたものじゃなくって、そもそも直方体の柾目の通った木からゴロンと彫り上げられたものを、脳天に鉈をあてがって前後にカチ割り、その断面をくり抜いて、その中に精巧なメカを仕込んだうえで再び前後を貼り合わせるっていうんだよ。

ぜーんぜん知りませんでした。

ちなみに「かしら」を見せてもらったのは床山さんの部屋で、そのほか幕が開く直前で大道具さんがバタバタ建て込み中の舞台だの大夫が座ってグルっと回る床だのを(あれは舞台の『盆』とちがって人力で回すんだってさ)、裏方さんが忙しく走り回るなかを迷惑かけながら見してもらったのであった。

写真下は終わった舞台から降りてきた人形のみなさま(おれたちの見物した『彦山権現誓助剣』には出てこなかったから出番を待って佇んでいるわけではない)。

人形の右隣りの下駄箱に乗ってるのは人形遣いが舞台で履く下駄で、人形の身長や自分の身長を舞台上でアジャストするために高さがいろいろになっているんだそうだ。なーるほどね。

いやじつにまったくモンガイカンのおれら親子には非常な勉強になってこれ以上有り難いことはなかったんだけど、昼の部と夜の部の幕間のわずかな時間の、大忙しでごった返すなかをおれら以外にも大勢の見学客が右往左往してるんだよ。

きっとアレなんだろうな。文楽の普及のために積極的にああやって見学客を受け入れようという申し合わせにでもなってるんでしょうね。

歌舞伎役者はテレビドラマでもバラエティーでも映画でも出て有名になって歌舞伎の宣伝できるけど、文楽はそういうわけにいかない。だからこうやって地道にファン作ってこうとしてるんだろうねぇって、一緒に行った娘がぼそっとつぶやいてたけどホントにそうだよな。

つうわけで見物したのは〈彦山権現誓助剣〉なのであった。

いやあまだこれで二度目の文楽見物だもんだから、どこをどう楽しんでいけばいいのか全然わかってないんだけどさ。ひとつわかったのは歌舞伎の「竹本」よりも文楽の大夫の語りのほうがずっとわかりやすいってことだな。

歌舞伎の義太夫狂言てのは竹本の大夫が語るのと役者がセリフを云うのが交互になってるというか、竹本はおもに「ト書き」の部分を喋ったり状況説明をしてるようでもあるけど、セリフを役者に代わって云うところもかなりあったりする。そのめまぐるしさで聞き取りにくくなるところは当然あるんだけど、こうやって二度目の文楽の舞台に触れてみると、文楽の大夫の語りのほうがお客にちゃんと芝居をわからせて楽しませなきゃイカンという人形浄瑠璃における唯一の「しゃべくり専門担当者」としての義務感というか使命感というか、そういうものが圧倒的に強い気がする。

まあシロートの誤解かもしれませんけど、そんなことを思うわけです。

それにしても物言わぬ人形の、なんと表情豊かなことか。

〈毛谷村〉の場の娘お園(吉田和生)が見せた若い女らしい恥じらいのしぐさに、となりの席の女性が思わずカワイイ!って声に出しちゃってたけど、いやほんとにカワイイだもん。ああいうの見ちゃうと、これはだんだん文楽にハマっちゃうかもしれない。以前歌舞伎を見始めたときに男が演じてる女なのになんでこんなにキレイなんだって思ったのを思い出しちゃったぜ。ニッポンの伝統芸能はじつにまったく困ったモンである。ヤバいなあ。また散財か。




by god-zi-lla | 2018-05-25 12:16 | 物見遊山十把一絡げ | Comments(4)
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東京は16日連続で、24時間のうちどこかで一度必ず雨が降ってるんだってね。ゆうべ寝るとき降ってたのが朝起きても降っている。なんなんすかねこの空はいったい。

最近見た芝居つうのを書いとこうかと思ったら、最近見た芝居なんてエントリーは今年になってひとつもないことに気づいたのであった。見てるんですけどね芝居は相変わらず。

といっても、ここんとこどうも歌舞伎に傾斜してるのがイカンなあと自分でも思うんだよ。ことしになって16回芝居見物に行ってるんだが、そのうち歌舞伎が11回、残り5回がそれ以外の芝居だもんなー。困ったモンである。

だけどね、ある意味仕方ないと思うのは歌舞伎座で見る歌舞伎が安いってのがあるんだ。3階のA席が6000円B席だと5000円、幕見席(4階)で見ればひと幕だいたい千円ちょっとだから、ふたつ見たって2千円ちょい。

これがたとえばシアターコクーンだとか世田谷のパブリックシアターやシアタートラムだとかにかかる芝居は大概安い席でも8千円前後、しかも最近は「ぴあ」だのなんだので予約して切符買うことがほとんどだから、そうすると発券の手数料やなんやかやでうっかりすれば安い席買ったはずなのに1万円近くになったりするんだもんな(歌舞伎座ほか松竹系の小屋には自動発券機があるからその手のお金は別途かからない)。

だから安い歌舞伎座へつい行っちゃうってのは間違いなくあるね。

ところがどうだ。今月の歌舞伎座は一瞬切符買う出足が遅れたらいつもの3階席を買い逃しちゃったじゃんよ。今月は納涼歌舞伎とて1日3公演で3階席は千円安い。せっかく安いのにそこに座れない。安いからフンパツして2公演くらい見ようかと思ったのにそんなの全然じゃん。

だけど今月はどうしても〈野田版 桜の森の満開の下〉が見たかったので仕方なく2等席11,000円に入ることにしたのであった。

だいたいアレですからね。歌舞伎座にかぎらず芝居にかぎらずコンサートでもなんでもバブルの頃はいざ知らず、今日び安い席から売れていきますからね。高い席でいいんだったらそんなに慌てて買う必要もないんだ。だから11,000円の2等席は余裕で買えたんでした。

まあ、ふだんの月の14,000円に比べりゃずいぶん安いともいえますが、3階席ならふたつ見物できるお値段には違いない。

なーんて、いつまで切符代のグチ言ってんだよ。

でその〈野田版 桜の森の満開の下〉は野田秀樹が何度も上演した自分の戯曲を歌舞伎座に初めて(つまり歌舞伎として)かけるってケースなわけだ。これは見ないとね。

今年は東京芸術劇場プレイハウスで3月1日〈足跡姫 時代錯誤冬幽霊〉っていう野田秀樹の芝居を見た。これが亡くなった十八世勘三郎へのオマージュとして野田が作った芝居だから、おもな登場人物は役者である。出雲の阿国とかね(宮沢りえが演じた)。その弟(だっけな)がサルワカというんだが、これがまあ大雑把にいえば勘三郎のご先祖さまということになっている。

サルワカというと2月の歌舞伎座はタイトルが〈猿若祭二月大歌舞伎〉と銘打たれて勘九郎の二人の息子つまり十八世中村勘三郎の孫の初舞台が目玉になってたんだな。

つまり2月は池袋で「サルワカ」木挽町じゃ「猿若」ということになってたわけで、まあこういうことが偶然に起こるなんてことはそうあるもんじゃない。

そして野田秀樹が今月歌舞伎座だ。

こりゃあもう当然〈足跡姫 時代錯誤冬幽霊〉も歌舞伎座でそのうちやってくれるんだろうと期待するなってほうがムリだ。なにしろ「カブキ」のご先祖さまの芝居だもん。しかも勘三郎へのオマージュだ。近い将来「十八世中村勘三郎○○回忌追善狂言」なんてことで歌舞伎座にかけるって「密約」がすでに結ばれてると、おれはニラんでるんですけどね。

で〈野田版 桜の森の満開の下〉だけど、残念ながらおれは遊眠社のほうを見てない。だからどこがどうと比べられないんだが全体としたらやっぱり「野田>カブキ」だったかな。

ものすごいスピードで言葉遊びだの駄洒落だのを連発しながら舞台のうえを動き回るっていう野田秀樹の芝居は、歌舞伎役者のスキルからいったら別にそれほど難易度高くないんだなというのは間違いなくあるんだ。たとえば女優が重たい衣裳やカツラでそれをやるとなれば出来る女優はうんと限られると思うんだけど、歌舞伎の女形ならへいちゃらである。

だからといって野田がカブキに呑み込まれてない。これはやっぱどっちかというと野田秀樹の芝居だよなあという気分でおれは見物してましたね。台詞はずいぶん歌舞伎に合わせて七五調に書き換えたんだそうだけどね。七五調にしたって野田秀樹の台詞は野田秀樹だなあという感じ。

もしかしたら、とくに休憩前の前半はふだん歌舞伎しか見ないお客さんには理解不能というより台詞を聞き取れなかったんじゃないかって気も少ししたね。それはまあ野田の芝居しか見ない人がいきなり歌舞伎の古典見たって台詞を聞き取れないのと同じなんだけど、そのくらい「野田」になってた。

後半のほうが「野田=カブキ」という均衡に近づいてたかもしれない。

役者でいえば七之助がこういう無邪気で無垢で残虐な娘というのに見事にハマってて良いです。染五郎のオオアマ(=大海人皇子)の前半と後半の(顔や拵えを含めた)対比がけっこう良くて、このへんは歌舞伎役者の面目躍如ってとこなのかもしれない。

猿弥はもう当たり前のように良いしね。ぼってり太ってるのに台詞も身のこなしも切れる切れる。それから芝のぶ。ちょっと狂気じみた奴隷の女と、後半はその幼い娘のふた役。なんでこういうスゴイ(しかもカワイイ)女形がふだんはほとんど台詞のない腰元みたいな役ばっかりやってんだろうって思うよ。だけど逆にそれだからこういうところで普段溜まりに溜まったものを噴出さしてるのかしらん。

まあ実力があると認められてるからこの役が付くんでしょうけど、それだけ普段の古典の配役が歌舞伎の古い序列から決して(ちょっとやそっと実力があったって)ハミ出さないという頑迷さを印象づけるよね。

それから勘九郎だけどさ。けっして悪くないんだけど、なんかもうちょっとはっちゃけたとこがあってもいい気がするんだよな。今回の芝居だけじゃなくて、最近そういう印象が強い。やっぱりエライ父親が死んで一門を背負って立たなきゃならない重圧感みたいのが影響してるのかもしれない。七之助の奔放さが近くにあるからよけいそういう印象になっちゃうってのもあるし。

勘九郎がバーンと破天荒なほうがかえって「野田<カブキ」にシーソーが傾いたかもしれないって気がちょっとするんだけど、どんなもんかな。

あー、最近見た芝居もなにも、けっきょくおとつい見た芝居のことしか思い出せないこのモウロクぶりを見よ。じつにまったく情けないねえ。

まあ、また思い出したらにしよう。

えーとね。題名だけ並べますけど今月はほかにシアターコクーンで〈プレイヤー〉。先月はパブリックシアターで木下順二の名作〈子午線の祀り〉。5月にシアタートラムで〈黒塚家の娘〉。4月は同じトラムで〈エジソン最後の発明〉。

ほかの歌舞伎はメンドくさいから省略。いっぱいあるし。わははは。

もうちょっと安いといいんだけどねえ、切符代。


by god-zi-lla | 2017-08-16 08:48 | 物見遊山十把一絡げ | Comments(2)
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ここんとこ気の重いことも色々とありますけど、そんなこたこのブログとは何の関係もないからいいんだけどさ。

芝居といえば6月の〈コペンハーゲン〉以来歌舞伎座に幕見を含め6回、国立劇場1回、世田谷パブリックシアターが1回、明治座に1回、シアターコクーンへ1回、それから本多劇場も1回。依然として歌舞伎馬鹿を続けてるんでした。困ったものである。

歌舞伎のことからいえばこのかんのことで思い出すのは新しい芝翫が橋之助の名前で最後に歌舞伎座に出た8月の土蜘〉。これが橋之助最後の本舞台だっていう想いが目一杯詰まったようなアウラを発してた。今月の襲名舞台の盛綱も良かったけども踏み切りの一歩手前の、思い切り気を張りつめて身をかがめてチカラを爆発させる直前の気迫が橋之助演ずる「叡山の僧智籌実は土蜘の精」にあったようにおれには見えた。

まあ、なんてったって好きな役者だから頑張ってほしいよね。

それから8月幕見で見た〈権三と助十〉の助十、同じ8月〈吉野川〉の大判事の息子(役名忘れた)、9月〈らくだ〉の屑屋、それから今月〈御浜御殿〉の富森助右衛門、新しい芝翫の〈盛綱陣屋〉で信楽太郎などを演じた染五郎。なんつうかこう、古典新作白塗りから百姓町人までなにをやってもキチンと見応えのある安定した役者になってきて、芝居見物に行く楽しみがひとつ増えた感じがするね。

国立劇場も歌舞伎で10月から師走まで三月連続で仮名手本忠臣蔵を通しで上演するというんだ。その10月は大序から四段目まで、普段上演機会の少ない幕をやってくれるからようやっと筋の飲み込めたところがいくつもあった。

それにしても「(殿は由良、由良というばかりで)わしのことなどオノでもなければクダでもない」と大星由良之助ばかりを重用した生前の主・塩谷判官を恨む斧九太夫(松本錦吾)の人間味がとても可愛いじゃないか(だけどその主人からの愛されなさと由良之助にたいする妬みが結局出奔→裏切りにつながるという伏線でもある)。

つうわけで七段目で九太夫が主の月命日に由良之助の口へ無理やりタコを押し込もうとするのは(由良之助の真意を探るという意図は意図として)それはそれでひとつの意趣返しなんだろうな。親子で仮名手本忠臣蔵を代表する悪いヤツだがそれなりに哀れを催すところもある斧九太夫なのであった。

だけど、そうやって物語の全体像を(ときに損得抜きで)見せてくれるのがありがたや国立劇場の通し狂言の御利益なのでした。

歌舞伎はとりあえず置いといて本多劇場のケラリーノ・サンドロビッチ〈ヒトラー、最後の20000年〜ほとんど、何もない〉。タイトルからして悪フザケだけど、悪フザケも突き抜けないとこういうことになっちゃうんだなあという見本だったな。シラケた客と箸が転ぶだけでも笑って帰りたい客に真っ二つみたいな客席に役者もやや戸惑う風なんだもん。最初っから笑いたがってる客を黙らせるところからが勝負だったんじゃあるまいか。

明治座の〈HONGANJI リターンズ〉はヅカファンの娘に引かれて善光寺詣り。たまにゃあ娘にべんちゃらのひとつもしとくというのが家族円満の秘訣なり。どうということのない芝居のなかで元タカラヅカ男役トップスターの壮一帆、九團次(歌舞伎)、諸星和己(もと光Genji)の3人がなかなか。

パブリックシアターの栗山民也〈ディスグレイスト〉はねえ、パキスタン系の弁護士とその甥っ子、アングロサクソンの妻、ユダヤ系のキュレーター、アフリカ系の若手女性弁護士ってのを多分ニューヨークの元の芝居じゃそれぞれそれらしいエスニックの役者がやったんだと思うんだけどさ。それで、そのエスニックの違いが芝居のでかいキモでもあるわけなところをここニッポンでは全部ニッポン人がやったわけだ。

んー、なんちゅうかアチラの舞台じゃ説明不要のことをコチラの舞台ではなんらかの方法で客に説明せにゃならない。秋山奈津子がアングロサクソンの女で小日向文世はインドを装うパキスタンで安田顕はユダヤですというのをさ。じつにまったく困ったものである。

ここんとこ串田和美の芝居はちょっとアレかなあという気分で見てたのが、先週水曜のシアターコクーン〈メトロポリス〉はなかなかだったと思う。ただし「なかなか」になったのは松たか子が登場してからで、そこまではうまく芝居に入り込めなくて何かもどかしい(自分とは関係のないものを眺めるような)時間が過ぎてくのであった。

松たか子と森山未來の二人ですね、まず見どころは。そしてその二人以外の俳優たちの身体の動き、それから音楽、装置も十分楽しんだ。

だけどさ。串田和美自身のやった役と、飴屋法水のやった役はなくてもよかったんじゃないかしら。





by god-zi-lla | 2016-11-20 18:55 | 物見遊山十把一絡げ | Comments(0)

さいきんの芝居見物

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さいきんの芝居見物ったってね。歌舞伎ばっかり見てるもんですから、さいきんもへったくれもないってばないんです。なんで歌舞伎ばっかり見るようなことになってるかというと、それはやっぱり第一に歌舞伎ってのはどうやって楽しむものかってことがちょっとずつ判ってきたからだろうな。

立て続けに歌舞伎を見てたらそれが判りはじめて、判りはじめたもんだから尚更面白くなってきてさらに立て続けに見に行くようになってきた。

けどね、それが出来るのも切符がほかの芝居よりも割安だってのがね、あるんです。歌舞伎座でいうと立ち見でもいいから幕見席でひと幕お目当ての芝居だけ見物するなら1000円から2000円。通常の席だったら3階席のBで4000円、いちばんよく行く3階席のAが6000円(これより上等な席には座ったことがない)。これで半日どっぷり歌舞伎です。

ちなみにせんだってのシアタートラムの〈コペンハーゲン〉が8500円。となりにある世田谷パブリックシアターにかかる芝居も2階とか3階でも大概1万円近いし、渋谷Bunkamuraのシアターコクーンならもう少し値が張る。同じ渋谷のパルコ劇場、下北沢の本多劇場、新宿の紀伊國屋ホールあたりだってまあ7000円から9000円の間が相場だしさ。

まあおカネのことばっかり言うのもどうかとは思いますものの、行きやすいのは安いほうだよな。1万円となるとやっぱり相当考えちゃうよ。

つうわけで今年上半期、見物した芝居は、
元禄港歌(1/7シアターコクーン)
書く女(1/21世田谷パブリックシアター)
逆鱗(2/23東京芸術劇場プレイハウス)
ETERNAL CHIKAMATSU(3/11シアターコクーン)
家庭内失踪(3/15本多劇場)
8月の家族たち(5/13シアターコクーン) 
コペンハーゲン(6/21シアタートラム)
以上7本、それでも月に1本以上は見てることになるんだな。以下、役者の見た感じ中心に覚えてることの備忘録。

〈元禄港歌〉は亡くなった蜷川幸雄の芝居。猿之助、段田安則、宮沢りえほか。歌舞伎ふうに演技のメリハリを強く出す猿之助と、それを加えつつ現代劇に踏み止まる段田安則。最近の宮沢りえは舞台の大女優への道まっしぐらと見てるけど、役柄のせいもあるのかここでは少し控えめなのが残念なり。

そうそう、澤瀉屋一門の芸達者、猿弥がどんどん金田龍之介っぽくなってきた気がするのは体型のせいもあるか。

〈書く女〉は永井愛の樋口一葉を描いた芝居で黒木華が樋口一葉。木野花の一葉の母がいいなあ。みんなあのレベルだったらなんてつい思っちゃう。そういえば井上ひさしの〈頭痛肩こり樋口一葉〉見たことがないんだよ。

〈逆鱗〉。野田地図。井上真央の怪演や良し。おれテレビぜんぜん見ないからドラマとかでどんなことしてるのかまるで知らないけど、先年の同じ野田地図〈MIWA〉では宮沢りえを相手に「健闘」してたのが今回は不気味な役を喜々として演じてた。これからはこの人の名前のある芝居は見に行こう。

〈ETERNAL CHIKAMATSU〉つうのは「心中天網島」のモディファイ(つうのかね)。七之助は単独で出てくると「女」だけど深津絵里と一緒だと「男」だな。元禄港歌の猿之助ではそうとも思わなかったところが猿之助と七之助の現時点での差ってものかしらん。

〈家庭内失踪〉は岩松了作&演出。風間杜夫と岩松了が二人で絡むところは芝居的面白さ満点なんだけどね。キャストの芝居の水準が揃うかどうかってのが芝居の難しいとこのひとつなんだろうな。去年の〈草枕〉とこれと小泉今日子の出た芝居を見ましたが、おれはちょっとね。いま上映中の映画「ふきげんな過去」は見に行きたいんだけど。

〈8月の家族たち〉はおととしだったかメリル・ストリープとジュリア・ロバーツの映画を見ちゃったからキビシイかと思ったんだけど、芝居は芝居で悪くなかったからほっとした。メリル・ストリープのやった母を麻実れい、ジュリア・ロバーツの長女が秋山奈津子。麻実れいの母親が狂いつつもカワイイという、こういう造形のほうが(メリル・ストリープのよりも)いいのかもなと見終わってずいぶんたってから思い返して思った。

これって映画のときも思ったんだけど、エンディングのあと登場人物のだれもシアワセになれないだろうと強く確信される「喜劇」でさ。先に映画見て筋書きを知ってたから芝居の最中笑える台詞になかなか笑えなくてね。その「ギャグ」が将来の不幸への伏線だったりするから。

でつい最近見た〈コペンハーゲン〉なり。浅野和之、段田安則、宮沢りえの完全3人芝居。浅野と段田はともにノーベル物理学賞受賞の理論物理学者でもって大量の台詞は学問上の議論を含んで、こりゃあタイヘンだったろうなと思うしかないんだが、3人出ずっぱりで動きもあまりなくストーリーといっても同じ場面を遡ったり先に行ったり巻き戻したり。そのかわり役者の口と客の脳味噌はフル回転しっぱなし。宮沢りえは浅野の妻役で二人の間に割って入り議論と時間を行きつ戻りつさせる。

宮沢りえがボトルネックになって芝居を滞らせるってことが全然ないんだよな。こういうふうに役者のレベルが高いところで揃うと難解な芝居がじゅうぶん楽しめるものになるってことを証明するような舞台だったと思う。

じつは去年見た〈草枕〉で、小泉今日子の代わりにこれが宮沢りえだったらと思ったんだよ。このときの出演は浅野和之と段田安則ほか。


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写真は〈コペンハーゲン〉のチラシ。なんかハンマースホイの絵をマネっこしてるじゃんと思ったらハンマースホイの絵でした。すみません。
by god-zi-lla | 2016-07-02 16:24 | Comments(4)

蜷川幸雄逝く

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きのうの夜シアターコクーンへケラリーノ・サンドロヴィッチ演出〈8月の家族たち〉を見に行った。れいによって入り口のところでチラシの重たい束をドカンと渡された。でその重たいチラシの束を開演前の客席でぺらぺらと繰ってたら、なかに12日亡くなったばかりの蜷川幸雄のものが3枚もある。まもなく初日の芝居と、夏の芝居と、今月末締め切りの出演者募集のチラシの3枚。

この人には死ぬ気なんてさらさらなかったんだな。

おれが芝居をそこそこ見るようになったのはそんなに古いことじゃないから蜷川幸雄の芝居もそんなに見てない。数えてみたらやっぱり5本きりだ。この際だから書き留めとくことにする。
近松心中物語(帝劇1983?)
オレステス(コクーン2006)
下谷万年町物語(コクーン2012)
火のようにさみしい姉がいて(コクーン2014)
元禄港歌(コクーン2016)
こういうことを言うのもなんだけど、こうやって見てみると蜷川幸雄の芝居だからと強く意識して見に行ったのは2006年の〈オレステス〉だけだった気がする。〈近松心中物語〉は仕事でたまたま見ただけだった。〈下谷万年町物語〉は唐十郎の芝居に宮沢りえが出るという興味のほうが先で、〈火のようにさみしい姉がいて〉はその宮沢りえと大竹しのぶが共演するというからチケットを買い、〈元禄港歌〉には猿之助が出るっていうから。

まあしかし、それだけでもう蜷川幸雄の策略に巻き込まれてたってことかもしれない。だけど、そういう興味で見に行っただけの不心得な客も裏切らない。こいつはじつはすごいことなんじゃないかと思う。なんかこう、客を最初から巻き込んで芝居のお終いまで引っぱってっちゃうチカラ。名前の知れた演出家の芝居をそうやって見に行って失望することってままあることだから、よけいそう思う。

平幹二朗と太地喜和子の出た〈近松…〉は20代に見た。仕事でお客さんのお供で仕方なしに見に行った(よくある企業主催の『お得意様ご招待観劇会』みたいなものね)。そしたらこいつが面白い。芝居見物のあとは席を移して宴会もあるから、この際昼寝でもしとこうと思ったのに眠ることなんかできない。とにかくものすごい色彩感。徹底したキッチュ。太地喜和子の異様な色っぽさ。おまえら商業演劇って小馬鹿にするが、ここまでギトギトに作り込んで芝居やったことあんのかよ、みたいなエナジーが充満してたからほとんど腰を抜かしそうになった。

そういえばあの太地喜和子と平幹二朗は「梅川、忠兵衛」だったんだと気がついたのは、歌舞伎を見るようになったつい最近のことでさ。あーそもそも素材が近松のほとんど無意味なくらいドロドロな女と男の情念の世界だったんだ。

20代に見たあれを60になった今あらためて見たらどんなだろう。
なんてことを、ちょっと思う。
by god-zi-lla | 2016-05-14 11:08 | Comments(4)
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前にも書きましたけど、楽しかったり面白かったりしたものはブログに載っけるけど、つまんねーものとかハラの立つものってのはなるだけやらないようにしてるんだよ。だって自分の楽しみでブログやってんだから、思い出してハラの立つようなことをわざわざ思い出したくないじゃんか。あー楽しかったねえ、なんて気分はいくらでも反芻したいけどさ。

だけどたまにはハラに据えかねて吐き出したくなることもある。
原作者井上ひさしの著作権継承者が難色を示して「原作者」の表記をしてないことが、芝居見たらいっぺんに腑に落ちたよ。だけどそんなこと確認するために大枚叩いたうえ渋谷の雑踏かき分けてくほどに、おれは酔狂じゃありません。

大勢の人が親しんだ題名を使って新しいものを作るんだったら、作る側はそれを踏まえたうえでそれを超えて素晴らしいものを作って、新たに作られたものがオリジナルからいかにかけ離れていようとも(それがパロディであれ)オリジナルに親しんできた大勢の人を納得させる(少なくともそのために最大限の努力をする)責任てのがあるとおれは思うんだが、それがまるで見えないからハラが立つ。

あー二つのエントリにまたがってブチまけちまった。

そんなことじゃなくて最近のヘヴィーローテーションは佐野元春のニューアルバムなんでした。これは良いです。佐野元春が近ごろのヨノナカでキモチ悪いと思ってるモロモロをすごくキモチいい音楽に仕立てててさ。その佐野元春の語る世間のキモチ悪さにも佐野元春の作る音楽のキモチ良さにも吸い込まれて、ここひと月くらい毎日繰り返し聴いてる。

そもそもファンじゃないんだけどね。なにしろ佐野元春のアルバム買ったのって30何年ぶりだもん。今年30歳になった娘が生まれる前、その頃住んでた碑文谷のアパートの大家さんの店のすぐ近所のレコード屋で買ったのをなぜだか覚えてるんだよな。

おれにとっちゃ佐野元春って、ちょっと才能あるからってエラソーにしやがっていけすかねえ学年1コ上のヤツ、みたいな。野田秀樹なんかも同じ。

だのに野田秀樹の芝居もいつのころからか好きで見るようになったし、こんだは佐野元春だ。

年齢近いのに自分と違って才能溢れるニンゲンてのを意味もなく嫉妬して反発するっていう、よくある凡庸な若者のパターンだな。いつか自分もナニモノかになりたいと思ってはいるけどナニモノにもなりそうにないってことも薄々感じてたりしてさ。おれ自身のほうがよっぽどいけすかねえヤツなわけだ。

それがここへきて好きになるってことは、ようするにまあ、還暦を前にようやっと自分はナニモノでもないってことに納得したってことだな。情けないねえ。

それにしても世間のキモチ悪さだ。
ある日
聖者を気どっている妙な人に会った
君のこと、知っているよ
清らかな言葉が得意だ
穏やかな笑顔で席を立って
祈る姿もキマっている
どこかの教祖になりたいか
だれかの神になりたいか

聖者を気どっている妙な人に会った
聖者を気どっている妙な人に会った

(誰かの神)
キモチ悪いものがものすごくかっこいいサウンドに乗っかっている。

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あ、それからApple MusicよりCDのほうがだんぜん音がいい。
できればLPも出して欲しいもんです。

(ブラッド・ムーン/佐野元春&コヨーテバンド POCE-9390)
by god-zi-lla | 2015-12-26 07:28 | 常用レコード絵日記 | Comments(0)