神はどーだっていいとこに宿る


by god-zi-lla

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先週のとある晴れた日の午前、用事があって馬喰町から秋葉原へ抜けてさらに御茶ノ水まで歩いたところが次の予定までまだ1時間以上あるではないか。こういうときは本屋かレコード屋ですね。あるいはその両方。

で、こういう時間つぶしにレコード屋に入ったときにかぎって良いことと悪いことが同時に起きるものなんである。

良いことは、思いがけないレコードに出合うこと。
悪いことは、思いがけない散財を強いられること。

まあいいんだけどね。

でその日は秋葉原から昌平橋を渡り、神田郵便局のところから淡路坂を登り切ったらそのままずんずん御茶ノ水駅前を突き抜けてユニオンのクラシック館へ入ったんでした。めぼしいものがなかったら次はJAZZ TOKYOだ(というコースね)。

とくに目的もないのでLP売り場のあちこちをだらだらと漁りながら新着箱のところが空くのを待って、端から見始めるといつもと様子がちがう。なんか妙に英盤が多い。なんなんですかこれって。そしたら新着箱のとなりに「英国買い付けレコード特集」って札の立ったエサ箱があるじゃないの。当然そこに刺さってるレコードは全部英盤。なるほど、これはきっと少し前から英国買い付け特集ってのをやってて、前回のぶんが終わったあと残りモノをそのまま新着箱に移動したんだな。

おかげで新着箱がミョーに新鮮なんだよ。たぶんそんなに珍しい盤はないんでしょうけど、つぎつぎジャケットを繰って見えてくる景色がいつもと違う。もちろんそのぶん国内盤が少ない。オビは少なし英盤多し。ついレコードを漁るスピードがいつもよりも遅くなっちゃう。まるで車窓の景色を楽しむ各駅停車の旅のやうぢゃないか、なんて。

ふとエサ箱から顔を上げると左隣りからオッサンが猛スピードで追い上げてくる。なんだよなんだよ、せっかくいつもと違う景色が広がってんだから、アンタもちったあ楽しめよ。せわしないなあもう。そんなにパタパタすんなってば。なんてってたら突然姿を現したのがコイツなのであった。



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うわー、これはなんて典雅なジャケットなのだ。見たことあるような気もするけどLPのジャケット実物を手に取ったのは絶対いまが初めてだってことはわかる。んー、これいいなあ。一瞬にしてこのイラストレーションとデザインにヤラれましたね。で、なんなんだこのアルバムは。

となりに迫っていたオッサンはおれが「停車」したので、あきらめてヨソのエサ箱へ行ってしまった。

そうするとこれはミュンシュ/ボストン交響楽団によるプロコフィエフのロミオとジュリエットと書いてあるのであった。んー、シャルル・ミュンシュといえばつい先日没後50年を迎えたと日頃よりお世話になってるこちらのブログを読んで知ったもんだから、パリ管との初録音ベルリオーズ〈幻想交響曲〉の40年前に買った国内廉価盤LPを引っぱり出して聴いたとこじゃんか。

なんてことがあったばかりでもあり、もちろん引っこ抜きましたね。お値段は三千円ちょっと。さいきんおれが買ってる盤としては高いほうだけどな(そうなのよ、めっきり高額盤を買わなくなったおれなのである)。こんなキレイなジャケットはめったにないさ。ユニオンが付けた札にも「ジャケットはピカピカ」と書いてあるが、おれはそういう意味でキレイと言ってんじゃないのよ。

で、検盤カウンターの上でビニール袋から取り出してジャケットを手に取ったところ古式床しくもつやつやとしたペラジャケのゲートフォールドでね。開いてみるとこれだった↓ わお、中にもイラストレーションが飾られてる。しかも5つの見開きからなる綴じ込みブックレットになってるじゃんか。こういうの見ると、もう舞い上がっちゃう性分でね。いやあこれはいいや。絵も典雅だけど本文の活字だって何ともいえない藤色で刷られてる。


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とまあ上の5つの写真のごとく、おおー、と驚いてユニオンクラシック館のカウンターで1丁1丁全部めくって眺めちゃったよ。それにしても針金で2箇所止めてあるだけのごく簡単な中綴じなのに、よくもまあ頁がバラけずにおれの手元に来るまで持ったもんだ。どう見たって半世紀は経ってるはずなのに(針金は赤く錆びてるし)。

これはもうおれんちで手厚く保護してやるしか道はあるまいて。


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これは裏表紙。
もう、なにがなんでもキレイで雅やかなジャケットに仕上げよう、作曲家や指揮者のむさくるしい顔写真なんか金輪際載っけてやるもんかという気合いが感じられるようだよ。

そんなふうにジャケットに見惚れて中身のことはろくに考えもせずに買い求め、うちに帰っておもむろにユニオンの黒い袋から取り出し、さてこれは一体どういうレコードなのであるかと点検し始めるんだからまったく困ったもんである。

プロコフィエフのバレエ音楽〈ロミオとジュリエット〉は知ってます。作曲家本人がそのなかからオーケストラのために組曲を作ったのも知ってる。だけどそれが3つあるのは知らなかった。

ジャケットの表紙を見るとタイトルの肩に小さく「EXCERPTS FROM …」と印刷されてるからこれがロミオとジュリエットの「抜粋」だってことはおれにでもわかるんだけど、でもなんで「SUITE」じゃないの。そう思ってジャケットを繰ると各トラックの曲目のあとにカッコ書きで例えばA面冒頭のトラックは「SCENE(Suite III, No.2)」というふうに書いてある。なーるほどね。

と、ここまできてさっきリンクを貼ったs-numabeさんのブログの過去の記事を探してみたらやっぱりあった。なるほどそういうレコードだったのか。勝手に二度もリンクを貼って申し訳ありませんが、モンガイカンのおれが何かテキトーなことを書き散らかして世間に害をなすよりはずっといいのではあるまいか(と思う)。

で、おれはといえばこうやってキレイなジャケットのレコードを見つけちゃってさあ、と自慢たらたらに徹するのみであった。じつにお気楽な人生であるというもんである。

このレコードが録音されたのは1957年というからモノラル最末期ということなんだろうけど、実際その年の暮れにはオーディオ・フィデリティって会社がステレオレコードを発売すると告知して話題になってたんだそうだ。つうことはRCAのような大手レコード会社もすでにステレオ録音を始めていて、ステレオ盤を販売する市場環境が整うのを待ってるような時期だったのかもしれない。


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赤いラベルの細かい文字を見るとFIRST PUBLISHED 1958と表示されている。つうことはおれが手にしてるこの盤は58年かそれ以降に売られたレコードだってことだろうな。ジャケットにもラベルにもSTEREOともMONOとも書かれてないところをみるとステレオ登場以前の盤だと思いたいんだけど、経験上レコード会社って結構テキトーだからね。念のためステレオカートリッジでかけてみた。

やっぱりモノラルだった。

だけど、どういう加減なのか、B面からオルトフォンCG25Diの代わりに取り付けてあるGEのバリレラカートリッジのLP針で聴いてみたらやや古めかしい音がして(1957年相応といえばそうなんだけど)たまたま試しにかけてみたステレオのテクニカAT50ANVで鳴らす音のほうが新しいというかシャープというか、少なくともこのレコードに刻まれた音楽にはAT50ANVのほうがふさわしいように思えてね。

モノラル盤はモノラル針でかけたほうがいいと思うんだけど、たまにこういう盤もあるんだなあ。モノラルレコードをモノラル針で聴くのはそのほうが鮮度の高い音がするからで、べつに時代がかった音がするってことではない。なので少し面食らう。GEのバリレラがそういう音なのかな。

ちなみに同じシャルル・ミュンシュが68年新生パリ管と録音した〈幻想交響曲〉は、おれが持ってるのは40年くらい前に買った国内盤のしかも廉価盤だけどすごく音がいい。

音もいいし演奏もこれ以上の「幻想」がそうそうあるとも思えないので、レコードCDほかの演奏をその後いくつか買ってみたものの結局このミュンシュ/パリ管に戻って、幻想といえこの盤ばっかり聴いている。だからミュンシュといえば、おれにはこの〈幻想交響曲〉なんだな。

おっと枝線に入ってきたから、これでおしまいにしよう。

なにしろおれはキレイなレコードを買った自慢したいだけなんだからさ。
もうじゅうぶん自慢したもんね。

by god-zi-lla | 2018-11-17 09:36 | 常用レコード絵日記 | Comments(4)
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東京は雪がちらちらしてきたので、コーヒー煎って暖を取っている。

ずいぶんのご無沙汰でございましたが左の欄にあるとおり生命活動は続けていたのであった。ことしになって今のところ映画2本、歌舞伎が1回、それ以外の芝居にも1回、ほとんど館蔵品ばかりの展覧会が1回、それからきのう落語の独演会(長唄三味線方の実演つきがうれしい)に行き、合間に珍しく大酒など飲んで二日酔いなんかしてるもんだからブログ書く元気がないの。

そんな初春の日々、突然コリン・デイヴィス指揮のボストン交響楽団によるシベリウスの交響曲を1番から全部聴いてみようなんて思い立ったんである。年明け早々〈ヒトラーに屈しなかった国王〉なんて映画を見たせいか、なんて一瞬思ったがあれはノルウェーの王様の話でフィンランドじゃないもんな。

まあ理由なんてどうだっていいんだ。このコリン・デイヴィスのシベリウス全集がおれは好きなんだよ。とにかくそういうわけで1番から順にレコード盤をターンテーブルに乗せて聴き始めたと思し召せ。

コリン・デイヴィスのシベリウスは70年代なかばの録音でね。いつ頃リリースされたのか知らないけど、おれが最初の1枚を買ったのはたぶん79年ころからじゃないかと思う。その最初に買った1枚は第1番でB面の余白に〈フィンランディア〉が収録されている。

でその第1番と威勢のよい〈フィンランディア〉を聴き終え、さて2番も続けて聴いてやろうとジャケットから盤を取り出したところがA面まん中らへんに何かゴミのようなものがひっついている。ブラシでさあっと掃いてみたが全然取れない。ちょっと爪で触ってみたところ、そいつは盤面にこびりついているじゃんか。ありゃあ、これはまたどうしたことか。

仕方ありません。このままかけるわけにはいかないから、とりあえず盤面にクリーニング液を塗ってヴァキュームクリーナーで(たぶんダメだと思いつつ)吸い込んでみたんだが、やっぱり取れない。なにが付いたんだろか。ちょっと盛り上がってる。すごくヤな感じ。

いやー見た感じもう通常の拭き取り作業では除去できないってわかるくらい。経験上、これは荒療治(つまり、なんらかの方法で引っ掻いて取る)しかないな。ダメなら諦めるしかないよ。

つうわけで縫い針でもってツンツンツンツン、突っつくようにほじくるように静かに優しく、しかし断固たる態度でもって溝の復旧を試みたわけだ。その状態が上の写真なんである。

でも、ちょっともうね。見ただけでムリっぽい。

しかしまあ、どの程度ムリっぽいかは実際聴いてみないとわからないからね。

ロックやジャズのレコードだと少々ブチっときたりしても気にならない場合が多い。クラシックのアルバムだって大編成のオーケストラの強奏部分だったりすれば、まあ許してやってもいいかなということがないわけじゃない。こちとら長年レコード聴き続けてきて、そのくらいの免疫は出来てるからね。

だけど今回のこれはちょっとツラいものがあった。なにしろ、さざ波のような弦の弱奏が続く箇所だもの。そこで10回転ほどバツッ、バツッ、バツッ、バツッっと。んー。いったい全体いつこんなものがくっついたんだろか。でもこれじゃあ諦めるしかない。じつに悲しい。正月早々気分が沈む。仕方ない、買い直すか。

このコリン・デイヴィス/BSOのシベリウスは70年代から80年代にかけてよく売れたシリーズらしくって、レコード屋ではよく見かけるんだよ。演奏はなにしろ英国の巨匠サー・デイヴィスがアメリカのメイジャーオーケストラを振ってるんだから北欧のほの暗い、ちょっとくすんだようなローカル色豊かなシベリウスじゃなくって、もっとずっと明晰で精緻で色彩感鮮やで「インターナショナル」なシベリウスになっている。

そのうえ録音がとても良い。なにしろここ40年近くの間におれんちのステレオ装置のグレードがちょっとずつ上がってくるにつれ、このシベリウスのシンフォニーもどんどん高音質に聞こえてくるんだからさ。で、重厚さというより左右も奥行きも上下もよく広がり個々のパートもよく聞き分けられて音場の見通しがいいうえに、適度の嫌味にならないデフォルメも効いてるもんだから、いつ聴いたってすこぶる気持ちが良くてね。

演奏も録音も良かったから沢山売れたとみえて、おかげで多分いまからレコード屋のエサ箱漁ってLPレコードで全曲揃えようと思ってもそんなに苦労しないだろう(そんな人がいるかどうかは別として)。

だから、いつもだったらいつまでも諦めきれずにうじうじと盤面いじり続けるところですけど、まあ、そのうち手に入るさとあっさり諦めて第2番はしまい込み、第3番以降を順番に聴いていったのであった。

でね。つい先週の17日、読書会で御茶ノ水まで出たので日高屋で肉野菜炒め定食に生ビールで腹ごしらえした後、ユニオンのクラシック館を覗いてみたんだよ。

まあ、そのうち出てくるとは思いつつ、それでも探し始めていきなりそれがエサ箱に刺さってるなんてことはさすがに期待も想像もしてなかったんだけどね。でもまあ、ふだんだったら「新着」コーナーを先に見るところをシベリウスの交響曲の(そんなに枚数があるわけでもない)エサ箱を先にパタパタしてみたんでした。

ありゃま。いきなり出てきた。ユニオン入店後たった2分。
1ラウンド、出合い頭のストレート一発でKO勝ち、みたいな。

しかも、おれが持ってるのと同じオランダ盤のラベルがいわゆる「赤銀」で、ジャケットに貼ってある〈Imported From Europe / Made In Netherland〉つう金色のステッカーも同じ。なんか拍子抜けするほど呆気ない幕切れじゃん。それが下の写真なり。1220円税込み。


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帰ってからあらためて盤を取り出し、マトリックスナンバーなどの刻印を仔細に比べてみると何から何までまったく同じで違いが判らない。たったひとつ違うのはジャケット(写真右)の右肩にあるPhilipsのロゴの下にへんてこりんな星条旗のシール(下部に『アメリカ』と文字がある)が貼ってあることだけで、見た目は寸分違わない(写真で色味が違って見えるのは2枚のジャケットを壁に立て掛けた角度の違いで蛍光灯の反射が変わっちゃったからです。大ざっぱな仕事ですまぬ)。

つうわけで、これで一件落着。こんかい買い求めたほうのジャケットは正体不明のシールが貼ってあるほか、ジャケット上辺の接着が剥がれてるので(欧州盤じゃ日常茶飯事なり)古いジャケットに新しい盤を入れることにした。

だけどこれが2018年最初に買ったレコードになっちゃったもんなあ。その日はこれを見つけたあと読書会の時間が来るまでの少しの間エサ箱を漁ってたんだが、これといって欲しい盤もなくレジへ持ってったのは結局この1枚だけだったんだよ。なんかちょっとだけ淋しいのココロ。

どうも以前にくらべると物欲ってものが減ってきてね。こいうのを「精力減退」なんていうんでしょうか、それはまた別モンダイ? いや、とにかくレコード屋でパタパタやってても欲しいレコードがほとんどない。

以前は欲しいものだらけだったオーディオ装置も、そういえば最近「カネがあったら、なにかオーディオの買い物がしたいもんだよなあ」なんて思うくせに、じゃあなにが欲しいんだって自問自答してみると具体的に欲しいものってのが思い浮かんでこない。あるのは「買い物したいなあ」って気持ちで、肝心の買い物したい「モノ」がなかったりする。

なんなんすかね。これって認知障害すか。それはまた別モンダイ?

あれほどいろんなモノが欲しかったのに、おれはいったい全体どうしたっていうんだろうな。
もしかしたら、そろそろ死ぬんだろうか。それはまた別モンダイ?


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(Jean Sibelius Symphony No.2 / Boston Symphony Orchestra / Colin Davis Philips 9500 141)

今夜は積もりそうだな。

by god-zi-lla | 2018-01-22 17:15 | 常用レコード絵日記 | Comments(8)
庭園美術館でサティとドビュッシー_d0027243_10344278.jpg
おととしだったか東京都庭園美術館の大規模なリニューアル工事が終わったあと久しぶりに館内を見学してみたら、以前だって贅沢で美しい内装と調度品のかずかずだよなあと感心してたのが、じつは相当にすすけたりくたびれたりしてたんだと一瞬でわかるクラクラするような清々しさなのだった(ここに修復作業のフォトギャラリー)。

なにしろ「美術館」のくせにヘタな美術展だと展示室の内装の美しさに展示品が負けちゃうんだから困ったもんである。修復前「あーこりゃ負けてるぜ」つう展覧会にふたつばかり遭遇したことがあるからね。それがさらに見事に磨き上げられちゃったんだから展覧会のほうもよっぽど覚悟してやってもらわないといけません。

じつはここの大広間でコンサートが定期的に開かれてたというのをまるで知らなかったんだよ。それが修理後ホームページを眺めてたらそんなものをずっと前からやってたというじゃんか。いやーああいう建物のなかで音楽を聴ける機会なんてそうそうないよな。というので去年藤原真理のチェロ独奏を初めて聴きに行き、つい先日こんだは小川典子のピアノでサティとドビュッシーなのであった。

でその大広間というのがこれです。写真の正面のガラス装飾はルネ・ラリックの特注品の扉でその向こう側が正面玄関になってるんだが、このラリックのガラス戸の前にグランドピアノが床に直置きされて、そのピアノと同じフロアいっぱいに並んだ椅子にお客が座る。

ここで開かれる音楽会は自由席で、初めて行った藤原真理のとき開演直前に入ったところ後ろの隅っこの窓際で演奏家の姿は見えず(なにしろ平台ひとつ置かれてない)折しも降りだした雨の音とチェロの音が混ざって聞こえてくるんだ。だから今回はもう少し良い席を確保しようと開場前から正面玄関の前に並び、前方3列目の中央あたりに席を取ったんでした。そうだなあ、ピアニストからおれの席まで5メートルは多分ない。

30年以上も昔、東京文化会館へポリーニのピアノを聴きに行ったことがあるんだけど、そのときの席が2列めの中央付近で(よくもまあそんな高い席を買えたもんだ)頭上から降ってくるフルコンサートグランドの轟音に耐えていたのであったが(いや当時のポリーニはすごかった)、普通サイズのヤマハのグランドピアノとはいえこんかいの席はさらにピアノに近い。

プログラムはサティの〈ジムノペディ〉第1番、〈グノシエンヌ〉の1と3番、〈ピカデリー〉それから〈ジュ・トゥ・ブ〉、ドビュッシーに移って〈映像〉第1集と〈喜びの島〉っていうサティもドビュッシーもよく知られた曲ばかりで、ドビュッシー〈亜麻色の髪の乙女〉とサティの〈おしゃべり女=『あらゆる意味にでっち上げられた数章』のなかの1曲〉をメドレーにした、ちょっと皮肉っぽい趣向のアンコールを最後に演奏しておよそ1時間。

日本のアールデコの「殿堂」で聴くサティとドビュッシーっていう、それだけでもなんかうれしいプログラムでしょ。朝香宮夫妻は1920年代、数年滞在したパリでアールデコにどっぷりハマって帰国後いま庭園美術館になっているこの邸宅を建てたんだそうだが、パリでドビュッシーやサティの音楽に触れたことがあったんだろうか。

しかしあれだよ。ピアニスト自身による楽曲の解説もなかなかに楽しい(こういうトークに小川典子さんはとても慣れてるんですね)気のおけない小さなサロンコンサートという趣きなんだけども、なにしろグランドピアノから数メートルだ。

サティだってドビュッシーだってチカラ任せに鍵盤ぶっぱたくような箇所はほぼないとはいえ、やっぱフォルテはフォルテだよ。じつは大広間に入ったときヤマハのふつうサイズのグランドピアノを見て、あー、なんかちっちゃいピアノだなあなんて思ったんだけども、実際問題あそこでスタインウェイの巨大なコンサートグランドピアノなんかがババーンと目一杯鳴らされたとしたら、前から3列までのお客は爆風で死にますね、多分。

そういう意味でも貴重な体験だった。これでプログラムがショパンやリストのピアニスティックな曲だったりすると、もう少し後ろの席で聴いたほうがよかったかもしれない。

じつはすでに同じ会場で開かれる吉野直子リサイタルの切符を買ってあるんだ。あの部屋で演奏されるハープって、なんかしらちょっと惹かれるものがあるでしょ。

終わって夜の8時半ころ、車寄せから正面玄関を振り返って撮ったのが上の写真なり。明るいラリック作のガラス扉の向こう側がすぐ音楽会のあった大広間になっている。

by god-zi-lla | 2016-10-29 11:15 | 物見遊山十把一絡げ | Comments(2)

断片化解消に6年

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なんか、夏だな。
爽やかな初夏の陽気ってのを超えちゃってる東京は気がする。

じつはこのエントリをアップしたときには、もう絶対バラ3枚で買い直してやるぞと決心してたフルニエのバッハの無伴奏全曲なのであった。苦節6年。さきごろようやっと3枚揃えることができました。

やっぱり6つの組曲を2枚に押し込めたレコードつうのは非常に聴きにくいんだよ。それからこれは多分にイメージに引っぱられてるとは思うんだが、ぎゅうぎゅうに押し込められて音もなんだか窮屈な感じがしてさ。

途中、70年代くらい再発の1番2番の1枚を「押さえ」で買ってしまったけど、まあよくあることではありますからこの際結果オーライということで。

このオリジナルは3枚組のボックスセットのようなんだが、どうせウンとお高いんでしょうから探しもしないし見たこともない。で今回揃った3枚はおそらくわりあい初期のバラ売り再発盤かと思うんだけど、古い〈アルヒーフ〉レーベルのれいの特徴的な、3面見開きで「糸縢り」などと呼ばれることもあるらしい(ジャケットを糸で縢るのは書庫などに長い年月架蔵した際、糊や接着剤が劣化変質するのを嫌ってのことなんだろう)独仏英語どれかを表紙に出来るジャケットに入ってるやつね。盤は3枚とも小溝ありで「1番2番」と「3番4番」の2枚は銀地に青い2本の輪っかの印刷されたラベルで、「5番6番」は少し新しいようでこの2本の輪っかのないタイプになっている。

買って聴いてみるとカッティングに余裕のあるせいか初期プレスだからなのか、たっぷりとした良い音がしてね。なにしろ4年前、3枚のなかで最初に手に入れた「3番4番」に初めて針を下ろしたときに、これはもうあと2枚探すしかないじゃんかって瞬間的に思ったくらいでさ。

いやほんとうれしい。ちなみに1枚は新宿ユニオンクラシック館、もう1枚は同じく御茶ノ水、あとの1枚はヤフオクで。偶然盤面の状態もほぼ同じなので、なおさらうれしい。コンディションのせいで聴く曲が偏るようだと、さらに良盤を求めて散財しなきゃならないとこだからね。

つうわけで断片化めでたく解消せり。
コトの起こりが下の写真左です(右端は途中『押さえ』に買った1番2番)。
これにて一件落着。
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by god-zi-lla | 2016-05-25 10:28 | 常用レコード絵日記 | Comments(0)
エラートのラスキーヌとランパルとランスロとパイヤール_d0027243_9145077.jpg
ジャン=ピエール・ランパルとリリー・ラスキーヌのモーツァルト「フルートとハープのための協奏曲」と、ジャック・ランスロのクラリネットによる同じモーツァルトのクラリネット協奏曲の2曲が収録されたエラートのアルバムというのは、amazonで見てみるといまも同じカップリングで現役の国内盤CDがあるくらいだから変わらぬ人気の名盤といっていいんだろうな。

だからおれが若い頃だってこのアルバムはちょっと大きなレコード屋のクラシックコーナーへ行けばわりと普通にビクター盤がエサ箱に刺さっていた。写真の右のジャケットは裏を見れば「Ⓟ'75」とあるから、おれも40年くらい前にそういう1枚を買ったわけで、それを今でも思い出したように引っぱり出しちゃ聴いて楽しんでるわけだ。

指揮者のジャン=フランソワ・パイヤールもランパルもランスロもそろって壮年の現役バリバリの音楽家で、19世紀生まれのラスキーヌだけがちょっとおばあちゃんというアルバムなんだが、フルートとハープのコンチェルトはじつに明るく大らかで典雅。もしかするとランパルはラスキーヌを立てて自分じゃ押さえ気味にしてるつもりなのに、若いランパルがついつい先に行きがちってふうに聞こえないでもないんだ(そもそもそういう曲なのかもしれないけど)。

ランスロのクラリネットのほうについていうと、80年代に入ってベーム/ウィーン・フィルとプリンツによるレコードを買って聴いたところ一瞬もしかしてこの曲はそっちのほうが正しい行き方かとも思えたんだけど、モーツァルトの人生に過度に寄り添わない(ように聞こえる)ランスロとパイヤールの音楽のほうがおれにはやっぱりしっくりくるってことがわかった。

ところでこのレコードを買った75、6年といえばおれはフォステクスのフルレンジユニットを自作のバスレフ箱に入れたスピーカーにテクニクスの一番安いダイレクトドライヴのレコードプレーヤーとビクターのプリメインアンプを繋いで聴いてた頃なんだけども、そういうステレオ装置でこのレコードを聴いてみるとなんだか古臭いようなもわもわっとした音色に聞こえてさ。まあ古い録音だから仕方ないんだよなあなんて思いつつ繰り返し聴いてたんだよ。

で古臭いといって実際のところいつ録音されたのかとネットでちょっと検索してみると、これが1963年のことである。ということは、おれが76年に初めて聴いたとしてそこから遡ること13年。んー、ちょっと待てよ。2016年のいまを起点にして13年前てば2003年だ。こんにち只今2003年に録音された音楽を聴いたとしてだね。その音を古臭いと感ずるかってば、そんなことはないんじゃないかしらん。

それがいつだったか今から10年くらい前になるのかもしれない。しばらく聴いてなかったこの盤を取り出して聴いてみたところ、間接音のたっぷりはいったとってもいい音のするレコードだってことに気がついた。いやあ、こんなふうに鳴るレコードだったのかあ。ようするに何が良い録音かもわからない未経験の若造がブームに乗って揃えただけの適切に調整されてないステレオでもってヘンテコな音を出して勝手にそう思い込んでたんだな。古臭いなんてトンでもない大勘違いじゃんか。そんな経験はこのレコードが初めてじゃないんだが、こんな聴き方を長年されてまったく不憫なのはレコードです。

でまあそうこうしていた(何もしてないけど)数年前のことなんだが、以前ブログにもちょっと書いたことがありますけどいっときアンドレ・シャルランの録音したレコードがすごく気になってた時期があってね(これとか)。シャルランレーベルのレコードを目にするたびに買って聴いてみたりしてたんだけど、そのブログに書いたミヨー自作自演盤のようにほかのレコード会社にエンジニアとして雇われた仕事もいろいろあったらしいというのを知ってさ。

それでシャルランのディスコグラフィを見てたら、このエラートのモーツァルトがそのデータのなかにあるんだよ(ここに)。

んーむ、そうであったのか。

シャルランレーベルのレコードってのは山口克巳さんの名著「LPレコード再発見」にもあるように、名録音なのか単にエキセントリックなだけなのかわからない盤もあって、そういう意味じゃあエラートのモーツァルトの音とはちょっと方向が違う。だけど山口さんによればシャルランがあのラグビーボールみたいな自作のダミーヘッドマイクで録音しても、シャルラン自身がマスタリングしたかしないかで音はグッと変わってしまうらしい。つまりきりきりとエッジの立ったサウンドはシャルランがマスタリングによって作り出したもので、別人がマスタリングすると穏やかで聴きやすいサウンドになるというんだな。

もちろんこのレコードはエラートのレコードですから、ムッシュ・シャルランは録音技師として関わったのみでマスタリングはまたほかのエンジニアによって行われたんだろうと思う。

だけどこのたっぷりとした空気感と一緒にしっかりと実体感のある音像が両立してるところは、何枚かシャルラン録音のレコードをそれと意識して聴き続けたときに受ける印象とかなり近い気がするんだな。アンビエント感に満ち溢れてるのに、遠くでさやさやと霞たなびくようなかそけき音では全然ない結構肉感的な音ってのが他のエンジニアがマスタリングしても消えないシャルラン録音の特質なんではあるまいか。

ただそういう感じってのは押さえ気味の音量だとあまり感じなくて、おれが若い頃に勘違いしてたようにちょっと古臭いモヤっとした音に聞こえたりする。だからおれはシャルラン録音ってのはやや音量を上げぎみにしたときに本領を発揮するんじゃないかという気がしてるんだけど、どんなもんでしょうね。

そんなことを考えながら国内盤でこのくらい良い音で聴けるんだったらエラートの原産国盤だったらもっとイイ音なんじゃないかしらなんて、例によって例の如きイケナイことを思いつつ探すでもなく探さぬでもなくしておりましたところ、つい先日写真左の原産国フランスの盤を読書会前の時間つぶしに覗いた新宿ユニオンクラシック館のエサ箱から救出してしまったんでした。これはいつ頃のプレスかよくわかんないけど、ひょっとしたらおれの持ってるビクター音楽産業盤と同じくらいの時期かもしれないフリップバックジャケットでお値段が1200円ほどでね。

いやあ、聴いてみるとやっぱり良くってね。じゅうぶん良い音だと思ってた40年前の国内盤よりも少しだけキリっとしつつ艶やかに聞こえるんだよねこれがまた。まあ、多分に、見つけたぜい!っつう高揚感(てのも大げさですけど、そういう気分)が影響してるとこも大きいとは思うんだけどさ。でもいいんだよ。だって、それもまた「良い音」を楽しむための大きな要素のひとつですから。

なんて書いてオシマイにしようとしたら、エラートはまったく同じ演奏家で58年に同じ曲目を録音してて、63年のは再録だっていうことが判った。A面B面どちらもまったくそのまま丸ごと。先のがモノラルで後のがステレオっていうんならわかりますけど、どっちもステレオだっていうし。んー。一体全体どういうことなんだ。
by god-zi-lla | 2016-03-15 10:12 | 常用レコード絵日記 | Comments(6)
グールドのゴルトベルク1981年盤の2015年盤のLP(なんてややこしいんだ)_d0027243_14185150.jpg
というようなわけでハーマンの人からマークレビンソンNo.29Lの修理完了したから代金送ってちょという電話があったので送金したのであった(イマドキ電話でやりとりしてるってのが、それだけでなんか楽しいよね)。たぶん明日かあさってにはブツは再びわが手元に戻るのでありましょうが、この年の瀬の物入りのさなか大枚叩いて届くのは見慣れた古いアンプリファイヤーという今日は師走十六日である。

なーにを言ってんだか。

先月の文京区湯島〈音と戯れる会〉でグレン・グールドのラストレコーディングとなった二度目のゴルトベルク変奏曲の、当時現場でサブとして回されていたらしいアナログテープからプレスしたLPレコードというのがあるというのを初めて聴かしてもらったんだよ。しかもそれは今年の秋口だかに出たばかりでまだアマゾンでも買えるというじゃんか。

いや、はっきり申し上げてグールドのゴルトベルクといえばおれにとっちゃ最初に録音された55年のヤツのほうである。なにしろこれが初めて買ったゴルトベルクのレコードだしバッハのレコードったって、バルヒャがモダンチェンバロで弾いた大伽藍のようなイタリア協奏曲のLPに次いで2枚目だったんだからもう40年以上も昔のことなんでした。

スタイルも思想もぜんぜん違うこの2枚ですけど(そもそもそんなことに気付いたのはずっと後のことだったし)、いまだって時折引っぱり出しちゃあなーんの違和感もなく愛聴し続けてる我が人生のレコードって感じだもんな。

だからグールドが最後に遺した新しいゴルトベルクにはイマイチ馴染めなくってさ。しかもレコードに針をおろすといきなり止まってしまうんじゃないかと思うくらいゆっくりと演奏されるあのアリアだ。いやあおれはやっぱ55年盤のほうでいいや。つう感じでなんとなく81年盤には手が伸びないであまり聴き返さないまま30年が経っちゃった。

81年にグールドが亡くなってCBSソニーの国内盤が出たのは翌82年だと思うんだけど、そこからそんなにたってない時期に買った盤が上の写真左側のやつで、ジャケットに挟み込まれた解説には諸井誠がグールドの訃報に寄せて書いた毎日新聞の記事が再録されてたりする。81年、82年というとちょうどCDが世の中に登場する前後のことだから、もしかしたらこの盤で初めてCDを手にしたなんて人も多かったのかもしれませんけど、おれが初めてCDプレーヤーというのを買ったのって86年のことですからもちろんLPしか買わなかった。

だけどね。なにしろグールドのゴルトベルクっちゃあ55年でしょの人でしたから先月その初めて世に出たアナログ録音のゴルトベルクというのを聴かせてもらっても、ふうーん、という感じでね。この30数年あんまり聴いてこなかったから即座に感じるものがないんだ。同時に聴いたCDと比べたら、まあちょっとモヤっとした感じがするなあみたいな。

しかし気になるのは気になるもんだからウチに帰ってこの写真左の国内盤を聴いてみた。んー、まあこういう音だったよなあ。クラシックとしたらかなりオンマイクのクリアーな音。湯島で聴いた音と思い出して比べるとこっちのほうがやっぱりバリっとした印象で、アリアは相変わらず止まるかと思うような遅さである。だけど以前のような違和感は感じない。もしかしたら立て続けに2回聴いたからかもしれない。

そしたらもう1回、今月の文京区湯島でも聴くことになってね。今回はまたちょっと違う趣旨ではあったんだけども、それはさておいて二度目を聴かしていただくに至って、とうとうこっちの物欲の堪忍袋の緒が切れた(なんちゅう表現じゃ)。これはやっぱし自分ちで自分のステレオ装置で聴き比べてみたいじゃん。そうしてamazon.co.jpから届いたのが上の写真右のLPなんであった。

グールドのゴルトベルク1981年盤の2015年盤のLP(なんてややこしいんだ)_d0027243_14191689.jpg
でこの新しいLPなんだが、デジタル録音初期のこととてアナログレコーダーをバックアップに回していて(当時は珍しくなかったみたいね)、最近になって見つかったそのアナログテープから起こしたLPレコードだっていうのがウリなわけだ。もともとのヤツはデジタルマスターからカッティングしてるわけですからね。

アマゾンの商品ページにはなーんの能書きも書いてないんだけど、同じLPをHMVのショップサイトに見てみるとこんなことが書いてある
…この1981年盤は初期のデジタル録音としても有名で、LPだけでなくCDも発売されました。その際LPのカッティングにもCD用のデジタル・マスターが使われましたが、今回のLPプレスに当たっては、そのデジタル・マスターではなく、デジタル・マスターと並行して収録されていたアナログ・マスター素材からグールドやサミュエル・H・カーターの使った編集用のスコアをもとに編集し、DSD化した音源が使われています。アナログ・レコーディング完成期ならではの、のびやかで安定感のある音楽的なサウンドは、グールドの超絶的に美しいピアノ・サウンドを再現しています。
晩年のグールドの透徹した表情を捉えた有名な初出盤のダブル・ジャケットを再現しています。(SONY MUSIC JAPAN)
んーむ。つうことはアナログの録音テープからプロデューサーの記録どおりに編集したDSDマスターを起こしてSACDとCDを作ったのち、その同じマスターでLPをプレスしたのが今回のLPなんですと読める。

つまり録音はアナログだけどマスターはデジタル、それをアナログにプレスしたってことだな。

アナログ録音からアナログマスターを起こしてカッティングした純粋アナログじゃないわけか。
ちょっと、なーんだ、って気分ではある。

だけどヘンな話、ここんとこ繰り返しこの81年盤、グールドが最晩年に遺した二度目のゴルトベルクを聴いてるうちにどんどん好きになってきててね。ふと、もしかしたらこのままもう少し聴き続けると旧盤よりこっちのほうがよくなってくるんじゃないかという気がしてきてさ。こりゃあアマゾンから届いたばっかりのLPとどっちが良い音かなんて比較もさることながら、もう少しじっくり81年盤と付き合ってみようかって気になってきちゃった。

不思議なもんだな。

左の駐車禁止ラベルが2015年LP(SONY 88875102811)
右のラベルは30何年前に買った国内盤(CBSソニー 28AC 1608)
by god-zi-lla | 2015-12-16 23:09 | 常用レコード絵日記 | Comments(3)
この2か月で読んだ本の備忘録_d0027243_14257.jpg
暑い。

左から。
スタジオの音が聴こえる 名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア 高橋健太郎(ディスクユニオン)
在日朝鮮人 歴史と現在 水野直樹/文京洙(岩波新書)
イワン・デニーソヴィチの一日ソルジェニーツィン/木村浩・訳(新潮文庫)
オリガ・モリソヴナの反語法 米原万里(集英社文庫)
ベンジャミン・ブリテン デイヴィッド・マシューズ/中村ひろ子・訳(春秋社)
坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ 坂東三津五郎/長谷部浩・編(岩波現代文庫)
紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす 武田砂鉄(朝日出版社)
家族という病 下重暁子(幻冬舎新書)
ロッパ日記代わり 手当り次第 古川緑波(河出書房新社)

以前似たような書名の「レコーディング・スタジオの伝説」という本を読んだんだが、そいつはポピュラー音楽史上名高いスタジオをめぐる人々と音楽のハナシが中心だったわけだ。それがこっちのヤツになると副題に並ぶ順番がそもそも(1)スタジオ (2)コンソール (3)エンジニアって、人は後回しだというんだから、両書の違いはここにバーンとあるわけです。面白い。オーディオ雑誌に連載してたからってのもあるんでしょうが、しかしまあ著者の偏愛ってヤツだな。

米原万里は読書会のお題で、なにせお話の重要な舞台というのがスターリン時代のラーゲリなわけだから、もう思い出そうとしなくったって高校のときに読んだソルジェニーツィンを思い出してしまったんでした。で、じつに40年ぶりに(いや、42年ぶりだな)再読したイワン・デニーソヴィチと初めての米原万里のオリガ・モリソヴナが並んでしまったんである。オリガは半世紀を超える長い長い波瀾万丈の物語だがイワンは本当にたった1日、彼の起床から就寝まで。極寒のラーゲリの或る「ありふれた1日」の物語。

なんていうのかなあ。崇高で強靱な庶民の魂の物語、なんてね。ラーゲリに数十万人というような数の市民が「犯罪者」として放り込まれるわけだけど、じつは犯罪なんか犯してない。ほとんどが善良な市民というやつだから、収監されてても根はみんな善良なわけで、たいていは勤勉でもある。そのなかのひとりがオリガで、べつのあるひとりがイワンてことだ。

オリガのほうは後半、展開があまりに幸運でご都合主義っぽく思えないでもないんだけど、オリガ・モリソヴナという老婦人の疾風怒濤のごとき人生に比べれば大した問題じゃないような気になって一気呵成に読ませてしまうとこは、米原万里の筆力というものなんだろうな。

ブリテンの評伝は、ここんとこブリテンという作曲家の音楽が気になるようになって(それは文化会館で大野和士が都響を振った『戦争レクイエム』を聴いて非常な感銘を受けたことや、ピアースとブリテンによるシューベルト『冬の旅』の古いレコードに自分でも意外なくらい心を動かされたことによるんだけど)、考えてみればこの英国の大作曲家についてなにひとつ知らないことに気付いて読んでみたんだよ。だけど読んでみれば読んでみたで、彼の作品についてほとんどなにひとつ知らないということにあらためて気付かされるわけで、こうなるとまたいろいろ散財ってことになるんでしょうかしらね。

三津五郎の語り下ろしの1冊を読んでみると、この人を歌舞伎が失ったことが非常な痛手であろうということを強く感じないではいられない。たんなる芸談というような本じゃなくて、もっとハッキリ観客に歌舞伎というものの面白さと深さを具体的な事例に基づいて伝えようという意図が全体を貫いているんだが、それだけでも三津五郎の歌舞伎に対しての思いの強さがわかろうかというもんではないか。それにしても、おれが最後に三津五郎を見た2014年8月27日歌舞伎座の「たぬき」をどうしても思い出してしまうよなあ。

砂鉄なんて人を食ったような筆名になんだコイツはと一瞬思ったが、ホント一瞬のことであとは最後まで、うむむむと唸りながら読むばかりのこれは見事な評論集だよ。おれ最近よく思うのが「一般論」てやつがじつは一般に流布しているある事象についての、深い考察とはまるで無縁で皮相ないわゆる床屋談義というようなものとちっとも変わらない一方的で一面的で無責任な決めつけ以外のナニモノでもないだろうってことなんだが、ここでまさに著者はそういうような例をこれでもか、これでもかという勢いでこっちに叩きつけてくる。いやあ痛快という感覚とはちょっと違うんだけど「快」か「不快」か選べと言われればもちろんおれには「快」。だけどこれを「不快」とする人もいるかもしれない。

そういうつながりで読んだわけじゃ全然ないんだが、その次の「家族…」はまさになんかこう一般論的である。「という病」なんてふうに家族を語ることで一般論的でない風を装ってはいるものの、やり口が「紋切型…」の〈老害論客の丁寧な捌き方〉に挙げられた事例と似たような調子なんだもん。近ごろなんだか売れてるというので(オビには30万部突破とあるしさ)、たまにはそういう新書も買って読んでみるのも「社会勉強」ってヤツかなと思ったんだけど、まあそういう社会勉強にはなったかもしれない。

「在日朝鮮人」は自分の曖昧な認識を、事実を示すことでハッキリと正してくれます。あーそうだったのかというコト多数。なにごとにつけても基礎知識を身につけておかないと「一般論」に傾きがちですからね。
by god-zi-lla | 2015-07-31 23:47 | 本はココロのゴハンかも | Comments(0)
なぜかここんとこのヘヴィーローテーションLPはヘンデルなのだった_d0027243_14512866.jpg
とても困ったことに9年も使い続けてるキヤノンPower Shot Pro 1が故障してしまったのだった。どう設定してシャッター切っても露光過多で階調が吹っ飛んでしまった写真しか撮れなくなっちゃった。いやー困ります。困った困った。まいったねえどうもこうも。この9年のデジカメの進化を考えれば修理するより新しいの買うほうが合理的なのは間違いないと思うんだけど、あたしゃいまカメラに散財するお金がないんだよ。

と、長くなるからこのハナシはまたそのうちね。

というようなわけでヘンデルのコンチェルトグロッソop.3のLPをほとんど毎日のように聴いてるんだが、この1980年録音のジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツのエラート盤をおれはいつ買い求めてたんだか皆目思い出せないのだった。多分ね、10年は間違いなくたってると思うんだよ。ことによったら20年とか、あるいはそれ以上。だけどまるで覚えてない。

ロジャースStudio 2aの足を炭素繊維の小型円錐から鋳鉄製の金床スタンドに取り替えてすぐ(あ、このハナシもまたそのうちね)、さて何かレコードをかけてどんな具合だか聴いてみましょうと思ったところが、そのとき手近なところにあるレコードがロックとジャズばっかりでね。ちょっとバロックの弦楽合奏など試してみようと思って物置部屋に行って棚を漁ってたらこのレコードに指が掛かったので引っぱり出してみたんだ。んー、そういうえばずいぶん前に買ったよなあコレ。というくらいだからどんな音楽だったかなんてまるで覚えてない。

まあこれもなにかのご縁だろって自分のレコード相手にご縁も十円もあったもんじゃありませんが、とにかくすごく久しぶりなのは間違いないんだから聴いてみようとターンテーブルに乗っけて針を下ろしたところ、ほおー、これはこんなふうな音楽でこんなふうに鳴る録音であったのかって思わず身を乗り出してしまったのだった(ホントは乗り出したりしてませんけどね)。

なにしろコンチェルトグロッソって日本語ではなんていうのかすらよくわかってなかったんだから、われながら毎度毎度モノを知らないにもほどがあるよ。合奏協奏曲がコンチェルトグロッソの訳語なんですってね。ウィキペディアにそう書いてあった。んー、なるほど。コンチェルトグロッソも合奏協奏曲もそれぞれコトバとしては知ってたけど、それが同じモンだってことをまるでわかってなかった。困ったもんだねえ(困らないか)。

ついでにこのレコードに入ってるヘンデルの「6つの合奏協奏曲-作品3」てのはいったいどういう成り立ちの作品なのかネットで見て回ったんだ。そしたらウォルシュっていうイギリスの海賊版の楽譜屋がハイドンのオペラやオラトリオの幕間に演奏される音楽を勝手に集めて「作品」に仕立て上げて売ったんだっていう、なんだかホントのようなマユツバのようなことがあちこちにパラパラと書かれているのしか発見できない。

そういや、聴いてみるとどの曲もとっても聴き映えのする明るくて華やかな音楽ばかりなのに、全体としたらなんとなくとっ散らかったようなまとまりのないような感じもするなあと思ったのは思ったんだけど、それって海賊版屋のせいなのかしら。

んーむ。しかし18世紀のイギリスにもブート屋なんてのがいたのか、っていうそういうハナシじゃないんだ。いや、まるっきりそういうハナシじゃないわけでもないんだが、とにかくちょっと釈然としない感じもあったんだけどウチには食材図典はあっても音楽事典なんてものはない。仕方ないので英和辞典を引っぱり出してきてイヤイヤながらこのレコードのライナーを拾い読みすることにした。

そうすると、おれが間違って読んでなければウォルシュっていう楽譜出版屋さんはどうも16世紀末から17世紀にかけて作られたヴィヴァルディとかアルビノーニとかコレッリといったイタリアの作曲家のコンチェルトグロッソをイギリスで出版して稼いだらしい。それが海賊版なのかそうでないのかわかんないけど、この時代それが今でいう海賊版だって認識があったんだろうかね。その当時はまだ外国で当たってるモノを勝手に持ってきて商売するっていえば、たんに目ハシのきく商人ていうだけのことだったんじゃないかって気がしないでもない。少なくともレコードのライナーにはウォルシュという楽譜屋が海賊版をイギリスで売ったとかそういうことは書いてない(気がする)。

このライナーによるとウォルシュはのちにヘンデルの「プリンシパル・パブリッシャー」になったとあるからようするにヘンデルの作品を広く扱う一番の出版社になったってことで、つまるところ大英帝国の人気作曲家ジョージ・フレデリック・ハンデルの楽譜出版を一手に引き受けるようなロンドンの出版社ってのはどう考えたって大手のひとつだったに違いないもんな。

しかしまあイタリアのコンチェルトグロッソでひと山当てたウォルシュがヘンデルの作品に目をつけて、オペラやオラトリオの間奏曲を集めてきて「コンチェルトグロッソ」に仕立てて稼ごうとしたというのはどうもその通りのようですね。まあそれを多分勝手に選んで勝手に出してヘンデルに「そんなことされちゃ困るよウォルちゃん」なんか言われたりもしたんだろうか。そういやいまでもレコード会社が人気ミュージシャンが残した録音のなかから勝手にベストアルバム作ったり未発表作品集出したりしてトラブるなんて話はいくらでもあるもんな。

それを怒ってヤメさせるマジメな音楽家と、まあ儲かってるからいいやって結局済ましちゃうズボラな音楽家と、このコンチェルトグロッソにちゃんと3番ていう作品番号がついてるとこみるとヘンデル先生てば後者だったんだろうなっていうのは一種の下司の勘繰りってやつですかしらね。

つうようなことをこっちもウォルシュ氏に負けず勝手に想像しながら毎日のようにこのレコードを聴いてるんだけど、フルートとかオーボエとかファゴットとかが弦楽合奏にちりばめられてるせいか(オルガンやリュートも鳴るし)、ちょうどいまの季節に合うような色彩豊かな音楽でね。ちっとも精神的な深みみたいのを感じさせないところはヘンデルのせいなのかウォルシュのせいなのか知らないけど、とにかく楽しんで聴いてくれればそれでいいんですムツカシイこと考えたいんだったらバッハ聴いてくださいねって感じな、いわゆるひとつのエンターテインメント性にあふれたこれは音楽にきこえるとこを気に入ってる今日このごろなのだった。

それでね、このレコードは音がとってもいい。CDで聴いたらどうかわかりませんが、いわゆる朝の爽やかな空気のなかでさやさやとバロック音楽なぞ聴いてみましょうかっていうような音じゃ全然ないの。そういうのだとおれ、繰り返し聴いてないと思う。なんていうか墨痕鮮やかにメリハリのついたどっちかというとマッシヴな存在感のある音でね。これはもしかしたらレコードならではの音かもしれないって気もするし、なによりもそういう演奏をガーディナーがしてるんだということでもあるんだろうな。

とにかくいくらか音量を上げぎみにして聴いてみると、あーレコードで音楽を聴いてるなあっていうあの知ってる人しか知らない、ふつうの人は知らなくったってちっとも困らない、おれらオーディオ装置で音楽を聴くのが好きな人間とくにサウンドステージより音像が大事というわしら一派にはたまんないような爽快感のある音がするレコードなんです。
なぜかここんとこのヘヴィーローテーションLPはヘンデルなのだった_d0027243_8364230.jpg
HAENDEL-CONCERTI GROSSI OP.3 English Baroque Soloists/John Eliot Gardiner (ERATO STU 71367)
by god-zi-lla | 2014-05-18 09:02 | 常用レコード絵日記 | Comments(2)
この2か月で読んだ本の備忘録_d0027243_11114127.jpg
古い話をしてすいませんけど、おれら夫婦が結婚して六畳と四畳半のボロアパートに暮らし始めたとき、家財道具のたぶん七割がたが本だった(おたがい、独身のうちに不要な本を大量に処分してきたはずなのに)。なにしろ二人合わせてスチールの本棚8本のすべてに棚といわず上下の隙間といわず本が乗っかれるあらゆる隙間という隙間に本が刺さってんだからさ。いったい全体何冊あったんだろうな。あの根太が腐って歩けば畳がぶよぶよと波打つアパートの床がおよそ2年、よく持ったもんだと思うよ。

その本の中身の詮索はともかくとしてもだな。まあこれだけ本にうずもれて暮らしてる夫婦が本嫌いなわけはないんだ。それから子どもを女の子と男の子の二人授かって、べつにどちらも分け隔てなく同じように育てたつもりだったのに女の子のほうはよく本を読む小学生になり、男の子のほうはマンガとゲームの好きな小学生になった。

いま娘はアラサーで独り暮らしをしていて、たまの休みにウチへメシでも食いに来たついでに、そのへんに積み上がってる親ふたりの読み終わった本の山から気に入った数冊を抜いて持って帰るのがほとんど習わしのようになってるんだが、おれたちと一緒に暮らしてる社会人3年目に入った息子のほうはといえば、そんな本どもにはいっさい目もくれずに相変わらずマンガを読み耽り自室のカードゲームの山にうずもれて寝起きしてるんだ。

いやだからどーっていうんじゃないんだ。まったく同じ家庭環境で育ちながらここまで違ってんのが、なんかすごく面白いことな気がしてさ。んー、こういうことについては意外と家庭環境の影響力って大きくないんだなと思ったりするわけです。息子なんか親の影響力を断固排除してとうとうゲームの会社に就職しちゃったから、まったくたいしたモンだと思うよ。うっかり読書なんかにハマってたら、こうはいかなかったかもしれない。

こないだ、いまの大学生のうち4割が1日のうち読書に割く時間がゼロだって何かの調査のことがニュースになってましたけど、まあそれだけあげつらって嘆いたりするようなモンでもないと思うんだけどね。これってようするにすべての大学生にはヒマな時間が山のようにあって、なのに読書する時間がゼロっていうのはどーよ、ったくイマドキの大学生は! みたいなオトナの先入観に基づいた根拠のない床屋談義的な悲憤慷慨を惹起するためのニュースなような気がしてさ。

読書する人生も、しない人生も等価です。
読書がおれの人生に役立ってるのかないのかなんて考えたこともない。だけど本を読むってことはホント楽しいモンだよなあとは、いつも思う。ウチの息子もきっとゲームはホント楽しいよなあと毎日思ってるにちがいない。お互い、楽しめるものがあってよかったよなあと、それだけだな。

左から。

人間昆虫記 手塚治虫(秋田文庫)
転がる香港に苔は生えない 星野博美(文春文庫)
ジャズ・ロックのおかげです 中山康樹/ピーター・バラカン/市川正一(径書房)*古本
子どもの難問 哲学者の先生、教えてください! 野矢茂樹・編著(中央公論新社)
グルダの真実 クルト・ホーフマンとの対話 フリードリヒ・グルダ/田辺秀樹・訳(羊泉社)*古本
特攻隊と〈松本〉褶曲山脈 鉛筆部隊の軌跡 きむら けん(彩流社)
地図で読む東京大空襲 両国生まれの実体験をもとに 菊地正浩(草思社)

というわけで手塚治虫は読書会のお題だった。
医学の学位を持っていて、生物について専門的な知識を持っている著者が昆虫というコトバをたんなる飾りとして使うものかどうか。あるいはファーブルの「昆虫記」をまったく意識しないで昆虫記という文字をタイトルに取り込むことが手塚治虫という人においてありうるのかどうかということを考えてるうちによくわからなくなってきた。

星野博美と高野秀行と角幡唯介の3人はまるで書くものが違ってはいるんだけど、3人とも普通の人はそこまで行かないだろうっていう「真っ只中」に飛び込んで、自分の五感のすべてを総動員して受容したものを文章に刻みつけてくるという意味ではよく似てるんじゃないかという気がする。

香港が中国に返還されて総督と駐留英軍が撤退した翌日の早朝、人民解放軍が国境を越えてひっそりと「入城」する瞬間を見届けてた日本のジャーナリストなんてほかにいたのか。それがどういうことなのかを認識してた日本のジャーナリストがほかにいたのか。

この人はタダモノじゃないよ、やっぱり。もっと早く読んどけばよかった。
だけど、近所の喫茶店の店員の男の子にほのかな恋心を抱いてたりしてカワイかったりもする著者なのであった。

ジャズ・ロックって何だ? って特集を組んだジャズ批評誌はホントに馬鹿馬鹿しくて面白かった、とは思ったんだが、まさかそんなテーマを20年も前に本にしてたバカな出版社があるなんて思いもしませんでしたね。いやあースティーヴ・マーカスのカウンツ・ロック・バンドのジャケットが表紙を飾ってるんだもん。しかもなんかデザインまでサイケ調だしさ。ほんと、ばっかだなあ。

で、これを読んだところでジャズロックとはそもそもなんなんだという疑問にはまったく答えてくれてないのであった。そういうことじゃなくて、なんかこう得体の知れない、実体のあるような無いようなものを面白がるっていう、それだけなのよね。筆者も読者も。

子どもの難問は途中まで、これはなかなか良い本だなあと思いつつ読んでたんだけど、読み終わるころにはそのへんの判断はちょっと保留にしとこうかなって気分になっててね。しばらく置いて、もういっぺん読んで確かめてみようかとも思う。考えることについて考えることは好きなんだよな。

グールドについて書かれた本はそれこそ売るほどあるのに、グルダについて書かれた本を見たことがなかった。たしかにこれはグルダがどうやって育ち、なぜジャズやほかのアートに手を染め、何を考えてるかよくわかる本ではあるんだけどさ。これはグルダについて書かれた本じゃなくて、グルダがグルダを語った本なんだよな。なかなか。

だけどこの人は徹頭徹尾ウィーンの人なんだな。
ブレンデルもデームスもバドゥラ=スコダも、みんな親戚みたいなモンだってさ。

鉛筆部隊と特攻隊の続編は、今度はその本自体の反響と新聞に載った書評と著者が出演したラジオ深夜便によってさらに広がりと深さのある進展を見せて、たんに続編というところにまったくとどまらないで、さらにいろんな問題を提起してすごいことになっている。

それにしても当時を経験したいろんな人たちが自分の死を前に語り始めているんだなと思わずにいられない。おれの父の語るのを聞いてても、そう思う。いままで知られていたのとまるで違う、戦争と人間の関係というのかな。キレイゴトと露悪趣味の間でウンザリしてた人たちがようやく語り残そうとしているコトバ。いまの世間が再びヤバい雰囲気になってることも多分あると思う。

もう1冊の戦争についての本。学童疎開があって東京大空襲があって、学童疎開先から東京の下町に戻ってきた小学生たちが、じつの親も住む家も空襲で失って戦災孤児になったケースが多かったってことを迂闊にも知らなかった。母と祖父(お父さんは出征して留守、のち戦死と判明)とともに辛くも東京大空襲を逃げ延びた「地図で読む東京大空襲」の著者には隣近所の幼馴染みがひとりもいないんだそうだ。東京にいた子は空襲で死に、疎開していた年上の兄さんたちは戦災孤児になって行方知れず。

3人が両国から上野公園まで走って逃げた道筋が地図の上にプロットされている。掲載された「戦災消失区域表示(こんなものが作られていたんだ!)」を合わせて見ていると、たぶん奇跡に近いことだったんだと思わずにいられない。この著者も鉛筆部隊で証言している人たちと同様、語り残さなければならないという衝動に突き動かされているんだと思う。著者の細かい事実誤認を編集者が見過ごしてるところが少しだけ残念だが、これはツカの薄さにくらべてずっと重たい本です。

(けっこう直しました。4月2日06:23)
by god-zi-lla | 2014-04-01 23:16 | 本はココロのゴハンかも | Comments(6)
フルニエのベートーヴェン(れいによって話はアッチ飛びコッチ飛びする)_d0027243_9532177.jpg
ところで2月は三谷幸喜の国民の映画と串田和美のもっと泣いてよフラッパーっていうふたつの再演舞台を見物してきてどちらも楽しんできたのだったが、いっぽう2月も3月も歌舞伎を見物してきてこっちはいちいち再演だなんてことは言わない。

言わないどころか仮名手本忠臣蔵だの勧進帳だの曾我対面なんてのは1年のうちに何度も何度も掛かってたりして、なんだかよくわからないが初心者のおれですらしょっちゅう同じ演し物を見せられて飽きてきたりするくらいなもんですから、考えて見ると(いや考えなくったって)これはなんだかすごいことですよ。しかしまあこの安直さっていうのか客が入りゃそれでいいじゃん的な、まあそういういところがそもそもお江戸の華、歌舞伎っていう大衆芸能の本質なんだろうな。

だけど2月の歌舞伎座、40年ぶりの「再演」だっつう「通し狂言心謎解色糸(とおしきょうげんこころのなぞとけたいろいと)」を見ると若い役者たちがどうやったらこれをお客に楽しんでもらえるか、手本のないところで苦労したり工夫したりしながら作り上げつつあるのが感じ取れて、ほーらやっぱりこういうのやったら客も役者も楽しいじゃんかなんてことを思ったりしたんでした。

そして、そんなこととはなんの関係もないフルニエとグルダのベートーヴェンなのだった。

このレコードはソナタの1番がA面2番がB面で、いつだったか新宿かお茶の水どっちかのユニオンクラシック館のエサ箱から引っこ抜いてきたのだったが(もちろんカネは払った)、じつはおれ、この現物を見るまでフルニエとグルダがベートーヴェンのソナタをやったレコードがあるということをまるで知りませんでした。フルニエのベートーヴェンといえば40年代のシュナーベルとの2枚組LPを持っていて、ほかにケンプとの名盤があるってことはわかってたんだけど、シュナーベル盤を聴いてると、最初のころは思索的で素晴らしい演奏だと思って聴いてたのが、なんかのきっかけでシュナーベルのピアノがどんどん行っちゃうのにフルニエが不承不承くっついてってるようにきこえはじめちゃってね。ホントはそんなことないんでしょうけど、いっぺんそう聞こえちゃうと困ったもんでなかなかその印象が払拭できない。

なのでケンプのもそんな演奏だったら名盤とはいえ、わざわざ買って聴くこともないかなあなんてね。なんとなくシュナーベルとフルニエの盤も、ここんとこご無沙汰だったりしたわけなんだ。

どっちかっていうと曲がそういう曲なのかもしれないけどね。なんかこうチェロがせっかくギュイーンとかっ飛んでくかと思ったらピアノがデカい音で乗っかってきてチェロの頑張りをアタマっから押さえつけたりするような、おれみたいなシロートにはついそう聞こえちゃったりするところがベートーヴェンには多いじゃないですか。そんなことない? おれの聞き違い? そりゃまあそうなんでしょうね、きっと。

じつはおとついの晩、紀尾井ホールで小森谷泉のピアノと古川展生のチェロによるベートーヴェンの3番を聴いたんだよ。そしたらそのときもそう思った。なんつうか、どうもこのチェロとかヴァイオリンというような完全人力楽器(ヘンな名前つけてスマン)はピアノっていう補助動力付き自転車みたいな楽器にたいして非常に分が悪い、というか、分が悪いのがわかっていながらベートーヴェンはピアノにサディスティックにガツンと行かせて喜んでる気がしてならない。

そんなイメージが基本的にあるんですけど、話が戻ってすみませんがフルニエとグルダのベートーヴェンをエサ箱に見つけたときはこちとらフルニエもグルダも大好きなもんだから一も二もなかった。値段もチューリップラベルの古いプレスで盤面もぺらぺらなジャケも状態悪くないわりに安かったもんですから、ぱっと買ってしまったんでした。

そのときウカツにもぜんぜん気づいてなかったんだけど、これってモノラル盤だったんだよ。59年ころの録音ですから当然ながらステモノです。ウチに持って帰って聴いて初めて気がついた。あーそれで思ったよりもウンと安かったんだなあと、そこでやっと気づいたあたくしがボンヤリ父さんなのだった。

だけどさ。59年のステレオ録音でさ。これがジャズだったらモノラル盤のほうが高いんだぜ、たいていの場合。ステモノだってわかっててもステレオ盤と併売されてたモノラル盤のが高い。クラシックだとその逆。なんかすごくヘンテコリンな現象だけど、おかげでこのレコードを手にれることが出来たともいえるよな。もしあのときエサ箱に刺さってたこいつがステレオ盤だったらとてもおれには買えるようなお値段じゃなくって、そうするとこのじつに気分のよい演奏を知るチャンスがずうーっと遠くのほうへ行ってしまっただろうなと思わざるをえない。

そう思うとクラシック中古レコード業界のステレオ盤崇拝というのは非常に結構なものですね。

そして、ここではシュナーベルのときはピアノに不承不承くっついてってるとばかり思ってたフルニエのチェロがじつに悠然と楽しそうでね。いっぽうグルダのピアノといえば例によって例のごとくキラキラと躍動的なんだけど、ちょっとだけフルニエ大先輩を立ててるような風情があってなんだかすごく爽快な演奏なんだよ。んーむ。これだからクラシック聴くのってホントむつかしい。演奏によって曲の印象がころころ変わってしまう。同じ演奏家でも時期や相棒が違うとまた違う。なのに、わしら演奏家は偉大な作曲家の忠実なるシモベにすぎない、みたいなことをあれだけ勝手気ままに演奏しときながらいけしゃあしゃあとのたまう演奏家が星の数ほどもいたりしてさ。

おれみたいなクラシックもときどきは聴きます的ないつまでたっても初心者の聴き手には広すぎてフクザツすぎる迷路みたいなモンです、いやまったくもって。

ジャズのばやいは1個1個の演奏が、あるいは録音だったら1つ1つのテイクですら違ってて不思議じゃない、つか同じほうがヘン、プレイはその一瞬一瞬の気分次第、みたいなことを聴くほうも思ってるからさ。それに曲ったってジャズだとたんにそれは「ちょっとした素材」だったりすることも多いしね。だからそんなにマゴつかなかったりするわけだ。

んー、こうなると名演のホマレも高いケンプとのやつも聴いてみたいよな。だけどその前にやっぱりグルダ盤の残り3曲を出来るだけ早く見つけたい、それもこれと同じチューリップラベルのおトクなモノラル盤でね。

じつはこのたび久しぶりにカートリッジをモノラルのCG25Diに付け替えた件については、このフルニエとグルダのベートーヴェンをモノ針で聴いてみたいと思ったのもひとつあったのでした。たしかにステモノ盤ではあるけども、まあヴァン=ゲルダーみたいにじつはステレオ時代になってもかなりの期間モノラルでしかモニターせずに録音してたなんてことはさすがに天下のドイッチェ・グラモフォンにはないんでしょうけど、そうはいってもどっちも同じドイツ人だ。これはやっぱりモノラル針で聴いたほうが音は良いんじゃないかと思ってたわけです(なんのこっちゃ)。

で聴いてみると案の定ステレオカートリッジで聴いてるよりよっぽど音に実体感がある(このへんの印象はジャズのレコードでもクラシックのレコードでも総じておんなじだ)。なんかこのレコードはモノラルがオリジナルなんじゃないかって気すらしてくる。もしかしてモノとステレオ、べつのマイクセッティングで別々のテープレコーダーに録音してたなんてことないかな50年代だし。なんて思っちゃうくらいモノラルレコードとしてすわりのいい音なんだよな。

もう少しの間、モノラルカートリッジを付けておきましょう。
(と、しばらくはモノラルレコードの与太話が続く模様)
by god-zi-lla | 2014-03-15 09:53 | 常用レコード絵日記 | Comments(8)